日本語の将来について考える

(国語が危ない)

 

中村省一郎

(初版1999年、第一回改定2000年、第二回改定2002年)

 

もう十数年も前のことでした。何年かぶりで日本の土を踏んで、東京で電車にのっていたところ、目に飛び込んできたのは、OIOIという看板でした。おいおいでもなし、ぜろいちぜろいち?当惑した私は隣の席の人におそるおそる聞いてみることにしました。「あの、すみませんが、あれはなんと読むのでしょうか」。すると返ってきた答えは、「ばかだねえあんたは、あれはまるいまるいと読むのだよ」でした。しばらく日本を離れている間に自分は本当にばかになってしまったかという疑いと、「まるい」をOIと書くらい変わってしまった日本語に二重の衝撃をうけました。

 

IIは当時私が直面した新語の一例ですが、そのときの日本滞在中、皆の言っていることがよくわからないことが多くありました。その理由は、新しい簡略語がやたらと増え、その定義をこちらが知らないためでした。

 

あれからもう十数年以上が過ぎました今、当時とは異なった日本語の変化が急速に進んでいます。衛星放送が発達したおかげで、近年になってから米国でも日本のテレビ放送が見られるようになりました。しかし、ただ楽しんでいるわけにはゆきません。日本語が急速に破壊されて行く有様を、いやでもテレビを通して聞かされるからです。破壊の最も大きな原因は、不必要な外国語を多数日本語に混ぜて使うようになったことです。

 

英語を使うのがかっこ良い、外来語で日本語に訳しにくい、あるいは訳語がない、日本語の動詞は数が少なため動詞の豊富な英語を用いた方が表現しやすい、同じ意味の言葉は日本語にも英語にもあるが意味にすこしのずれがあって英語のほうが自分の言いたいことがぴったり言える、外国生活が長く日本語が出てこない、日本語と英語の両方を使っていると不便なので英語で言えることは英語でいってしまう、などさまざまな理由が考えられます。

 

私は、日本語に混ぜて使はれる英語をを二つの場合に分類したいとおもいます。第一は、日本語で十分わかりやすく正確に表現出来るのに、わざと英語におきかえしまう場合、第二は、どうしても英語を混ぜなければ、表現出来ない場合で、英語を通じて入ってきた熟語や概念を表わす英語の単語で、日本語訳がない、あるいは一々日本語に直していられない言葉、あるいは英語の発音のままでないと都合のわるい単語が該当します。

 

以下、両方の場合についてもう少し詳しく論じてゆきたいと思いますが、結論から先に書きますと、第一の場合は、みなが極力努力して、不必要な英語の混入をやめる。第二の場合は、英語は仮名で書かないで、直接横文字で書くことを提案します。

 

第一部:不必要な仮名書き英語の弊害

最近のテレビに出てくる多くの人たちの話し方を聞いていると、しゃれたつもりで使っている英語の単語が多いのではないかと、思わざるを得なくなってきました。日本語で美しく正確に表現できるのに、わざわざ英語をつかって言うところに混乱の原因があります。外国語を不必要に日本語に混ぜて使うと、取り返しのつかないことになりかねません。現在でもすでに大きな問題を起していることを、どのくらいの人が気が付いているのでしょうか

 

ある放送局のニュースの時間に、アナウンサーが「ジェット機は飛行中にトラブルを起こし、、、」としゃべっていました。なんとなくわかるような文章ではありますが、もし子供に「トラブルって何?」と聞かれたら、トラブルとはagitation、annoyance、disorder、inconvenience、mechanical-mulfunction、pain、などなど、不都合なことや困ることはみなトラブルなんだけど、この場合は、mulfunctionという意味かな、と説明しなければならず、混乱します。仮に「ジェット機は飛行中にトラブルを起こし、、、」を英訳しても意味はよくわかりません。なぜなら、ジェット機が落ちたのはなんらかのトラブルがあって起こったことは、決まりきったことだからです。しかし、トラブルを故障の意味で言っているのであれば、結局「ジェット機は飛行中に故障を起こし、、、」と言い換えなければ、本当の意味は通じません。どうしても「故障」のところを英語風に言いたいなら「ジェット機は飛行中にメカニカルマルファンクションを起こし、、、」といったらよいでしょう。これなら、子供にもメカニカルマルファンクションは故障のいみだよ、と言葉の定義を説明出来るからです。

 

もう一つの例について書きましょう。つい最近のことです。ドナルドキーンというひとが、21世紀を迎える日本人に何を望むかと聞かれたのに答えて、色紙のうえに「他人に親切に、ドナルドキーン」と書いて、日本人同士にも他国の人にも親切にすることを考えてほしい、という考えを述べていました。その場面の締めくくりとしてアナウンサーは、「はい、ドナルドキーンさんは、このようにシンプルな表現で、21世紀を迎える日本人に何が大切かを話されました」と言いました。録音をとっていたわけではないので、詳細は違っているかもしれません。しかし、ここで私の疑問に感じたのは、シンプルという言葉です。「シンプル」は「他人に親切に」という表現をさしていることは間違いありませんが、「シンプルな表現で」という言い方は意味がよく通じません。つまり、もし「シンプル」を「簡単な」と訳したとしますと、「ドナルドキーンさんは、このように簡単な表現で、21世紀を迎える日本人に何が大切かを話されました」ということになるところですが、日本語としては失礼な言い方になります。むしろ「短い表現で」、あるいは「簡潔な表現で」と言う意味でありましょう。「わかりやすい」という意味だったのかも知れません。しかし「短い」や「簡潔な」またはは「わかりやすい」という意味は「シンプル」という単語だけでは言い表わせないのです。英語にも「シンプル」と置き換えられる単語は多数あり、この場合全部英語で書いても「シンプル」は使われないでしょう。

 

このアナウンサーの場合、「シンプル」の所をどうしても仮名英語で言いたいのなら、少なくとも「コンサイス」「ショート」「イージー」などの単語との違いを意識して使っていなければなりません。

 

日本語だけで話せば、たとえば「短い」「簡潔な」「簡単な」「単純」の中から、瞬間的に一番適切なことばを選択出来、また仮に不適切な言葉を選んでしまった場合にも、その間違いに気がつきます。全部を英語で言った場合もおなじです。しかし両者をまぜるときは、よほど両国語に精通していない限り、適切な単語の組み合わせは困難なうえ、間違いを身体で感じとることが出来ません。とにかく、日本語だけで話せば正確にしかも美しく話せるのに、無思慮に使われた「シンプル」のために、これだけ考えてもよくわからなくなるのですから、不必要不注意に英語を日本語を混ぜることは日本語を破壊することになります。

 

この「シンプル」は最近さかんに使われていますが、英語のsimpleとは発音がちがいます。外国人には通じないか、あるいはひどい訛のある発音と思われ、ばかにされるだけです。ここで、日本人の一般的な習慣として、他人の変な発音の日本語を聞いたとき、どれほど笑いこけたり、馬鹿扱いするか思いおこすべきです。

 

外国語の単語の無思慮にふざけた使い方も無視できません。たとえば、「牛肉アンドじゃがいも」、「横浜駅へGO」あるいは「山田さんは優勝をゲーットしました」などの表現をNHKのアナウンサーが使っているのをよく耳にします。このようなGOとかゲーットというような言葉は日本語になってしまったのでしょうか。「横浜駅へGO」の意味が私にはよくわかりません。「ゲーットしました」と言う表現はふざけていっているのでしょうか。私には不必要に汚された日本語としか思えません。このような言い方を放置しておくとなら、もっともっと英語混じりの汚ない言い方が出現することでしょう。このような言い方をされるアナウンサーの皆さんは、ご家庭でも同じような言い方で子供さんと話されるのでしょうか。聞いている人すべてが、ふざけた言い方を意識して居る間はともかく、テレビや雑誌の影響力の大きさを無視することは危険です。必ずこのような言い回しが当たり前と思う子供がでてくるはずです。英語の変な混ぜ方を何度もきかされていると、「ゲーットしました」というような言い方が、大真面目に言われているのか、それともふざけて言われているのか、私には最早わからなくなりつつあります。

 

仮名書きの外国語が多数混じってくると、日本語の文章を書き記るすことは、非常に煩わしいことになります。仮名では外国語の単語のつずりは勿論、発音もを表わせないことが多いからです。たとえば、討論という日本語を英語にかえて仮名でかくとすれば、ジスカションと書けばよいのでしょうか、デイスカションとかけばよいのでしょうか。仮名でなくてdiscussionとなまの英語でかけたら、どれほどすっきりすることでしょう。

 

正しい国語の重要性

 

正しい国語がなぜ重要かは、私が説かなくてもよく知られたことです。にもかかわらず、もし国語が乱れてくるとどのような弊害がでてくるかを考えるとき、書かずにはいられない思いになります。

 

個人個人の知的能力はその人の言語能力に大きく依存しています。その最大の理由は、人間の考える能力は言語が基礎になっているからです。無意識に考えているときも日本語で育った人間は日本語で、英語で育った人間は英語で考えています。したがって日本語で考える人間の日本語があやふやならば、深く考える能力が失はれることになり、また自分の考えをはっきり伝えることも、また他人から伝えられた情報や思想を正確に受け取ることも出来なくなります。また、子供の時に、少なくとも一個の国語をしっかり習得しないと、大人になってからは、何語をやっても完全には身につかぬとも言われています。したがって、外来語混じりのいいかげんな日本語だけで大人になった人は、思考力のない人間になってしまう危険性が大きいのです。

国語は人と人、世代と世代が、情報、思想や感情を伝えあう手段であります。したがって、出来るだけ多くのひとに世代を越えて分かりやすく、また言葉の定義ははっきりしたものでなければ通用しません。

 

日本に住んで日本語を話す外国人は少なくありません。しかし、米国、オーストラリア、台湾その他の国に居て日本語を勉強する外国人が多数いることは、あまり知られていません。英語でない英語、仮名書きの英語、辞書では調べられない単語などを多数知らなければ理解出来ない日本語、それも二三年で急激に変貌するため日本人でさえも理解できなくなる日本語を、日本語を学ぼうとする外国人にどのように教えたらよいのでしょうか。

 

憂うべき経験

 

仮名英語や、やたらと増える外国語との接触の影響と思いますが、最近の若い人の間で、間違った言葉の使い方や表現を当たり前と考えるひとは出で来ている証拠があります。internetの掲示板である人から通信をうけました。差出人の名前というのが、一風かわっていて、t.t.なのです(個人的なことなので文字を変えてあります)。ところが、私の日本語email―softwareは英語OSの計算機から書くため制限が多く、その通り書こうとすると、つぎの文字が文字化けしてしまうのです。しかし、T.T.と書くと、なんとか可能なことがわかりました。しかも人名の略なら、大文字で書くのが常識です。それで返信には、T.T.様、とかきました。ところが、二度目の通信には、私の返信にたいする礼が書いてあって、最後に、「日本人は相手の名前に敬意をはらい、正確に書くのが慣わしです。ところがあなたは、tをTとかいて来ました、不愉快です」とかかれていました。そこで私の計算機のemail―softwareではt.t.と日本語を混ぜられない理由を述べ、もしどうしてもt.t.をその通り書けとおっしゃるなら、通信は全部英語で書かせてください、それなら可能ですと書きました。ところが、今度は怒りをこめた通信がきて、わたしが英語を書けないのも知らないで、そのような事をいうのは、失礼にもほどがある、というのです。それでは、しかたがないので、「小文字テイイどっと小文字テイイどっと様」と書かせて頂きましょう、それでなければ日本人としての貴方の本名をかいて下さい、と返事したのが、さらに怒らせてしまい、収拾のつかないことになりました。

 

これは笑い話ともいえます。しかし、憂うべきは、現在のような仮名英語を簡略語の氾濫のなかで育った若い人には、日本語の伝統や作法も外国のも無視して、自分勝手な書き方をひとに押しつける態度です。しかも、周りの人は、彼の言い分は間違ってはいない、つまり私の態度が悪い(大人げない)、という意見でした。

 

私は米国人学生のレポートの添削をして、このような悶着をおこしたことがありません。読者の方はどう思われますか。もし私が間違っているなら、私はこれ以上日本語を使うことを諦めなければならないでしょう。日本語の病的症状が悪化しているか、それでなければ、私の頭が狂ってきたか、正直にいって精神分裂症になりそうです。

 

国語は文化遺産

 

言語が時代とともに変わって行くことはもちろんです。生活様式も思想も、時代とともに大きく変わって行くからです。しかし、言葉や文章の言い回しなどには、長いあいだ使われた結果、よいものがのこり、使いにくい言葉や、必要のなくなった言葉はすたれてゆくものです。

 

外国語の翻訳語として日本語となった言葉のなかにも、よい単語が多数あります。百貨店、活動写真など、先人たちが頭をひねって考えたのでしょうが、意味が良く分かり、またすこし愛敬もありました。しかし、デパート、ムービーと言ったほうが現代的だと思った若い世代の人たちに嫌われ、すたれてしまいました。

 

長いあいだ使われてきた言葉は、万人に通じ、またそういう言葉一つ一つが長い歴史をもっていたり深い意味をもっていることが多くあります。そういう長い間使われてきた言葉を、いきなり外国語の単語に置き換えることは、混乱のもとになるばかりではなく、文化遺産を無意味に破壊してしまうことを意味しています。現在の若い世代の人たちが、外国語のでたらめな混入をあたりまえだと考え出したら、文化遺産である日本語は完全に崩壊するでしょう。日本のあらゆるところ、いや、世界のあらゆるところで起きている自然破壊と共通しています 。

 

それに、外国の言葉も同じように、長い歴史を経て現在に受け継がれてきたものであることに違いはありません。そのことばの本当に深い意味やまた歴史を無視して、不必要に日本語に持ち込むことは、日本語の伝統と外国語の伝統を同時に破壊してしまうことのなりましょう。

 

外国語に日本語が取り入れられている例は、数は少ないが、いくつかあります。英語で使われる「ひばち」、「ふとん」などがその例です。英語にはそれに相当する単語がないので、かっこいいとか、現代的な言い方として英語に入って来たものではありません。ただ、その意味は日本人にとっては滑稽でもあり、迷惑な場合が多いです。英語で「ひばち」は鋳物で出来た七輪のようなもので、日本人が長い間炭火をいれて部屋をあたためたあの火鉢ではないのです。また英語で「ふとん」とは、折り畳みベットの上に置く布団に似たマットレスといえます。日本語のなかに入り込んだ英語が、これとよく似た間違いをしている例が実はたくさんあるのです。

 

日本語が、外国語の単語のあいまいな混入により、これ以上混乱すると、法律を書くことも、日本語をもとにして外国と条約を結ぶことも、科学や技術関係の報告書と書くことも、また学校で生徒に授業する事も、みな近い将来不可能になる可能性があります。そのような事態が来れば、一つ一つの単語の意味がはっきり定義されていて、長期にわったて安定した言語(たとえば英語)ですべてを書かなければ社会が成り立たなくなることでしょう。

 

外国語も同じように急変しているか

 

英語も時代と共に変わってゆくことは確かです。しかしその速度は日本語と比較すればわずかなもので、時代の流れにそって起こっているもので、外国語をやたらに取り入れて起きたものではありません。しかしこのことは、英語を第二国語として話す英語圏外の人にとっては非常に有難いことではないかと思います。もし十年前に覚えた英語が現在では通用しなくなるくらい名詞や動詞が入れ換わったらどういうことになるでしょうか。世界は混乱します。

 

英語を話す国では、正しい英語を解かりやすく美しく話し書く努力が、社会の数多くの場所でなされています。英語科出身で英語の書き方を専門とする編集者が多数いて、文章を正しく書くための指導をしています。また、出版物の多い会社や官庁、研究所では、出版物の読み返しの組織が作られていて、書き方のわるい文書が外へ出ないように注意されています。大学の教育科目でも、正しい英語を書くことが非常に重要視されていて、レポートを書かせる機会を学生に数多く与え、教授は学生の書いたレポートに対して、内容だけでなく英語の書き方についてまで詳細な注意を書いてから、学生に返すのが義務になっています。

 

私の知るかぎりでは、国文学出身の方が公私種々の機関で文章の書き方の指導をしておられるということを聞いたことがありません。学生時代に国語の教室で、古典文学の解釈や文法、難解な現代詩の美、などの講義は何度も聞いたけれども、文章をどう書けばよいかについては、一度も講義も演習もありませんでした。

英語で書かれた雑誌や新聞で、これはいかんと思われるような言葉の使い方や外国語の乱用が見られないのは、一つには英語が強い言語で他の国語が影響しにくいという見方もあるでしょうが、英語だって破壊されてゆく危険性はいくらでもあります。米国などは多民族国家ですから、危険性は日本語よりもはるかに大きいともいえます。それが起こらないのは、多くの人が注意していて、それを防いでいるからであって、日本語のように十年過ぎぬ間に、日本人が聞いていてもわからなくなるようなことは起こらないのです。

 

マスコミの役割

 

日本語の変化に最大の影響力を持つのは、なんと言ってもテレビとラジオ、つずいて新聞雑誌、ゲームのプログラムと考えられます。私はまずテレビのプロジューサーとアナウンサーに強くおねがいします。不必要な外国語を極力避けて、正しく美しい日本語を話し、またその必要性を聴視者に訴えてください。非常に大きな効果をもたらすはずです。

 

第二部:英語はどのように日本語に混ぜればよいか

 

第一部では、わかりやすく正確に表現できる日本語を、いいかげんな仮名英語に置き換えてはならないことを論じました。

 

しかし、その一方、新しい技術の進歩と共に、英語の単語を使わないで文章を書くことは不可能に近くなってきたことも確かです。その主な理由は、新しい熟語が英語の形で日本に入ってくるので、訳してはいられない。また、外国人との接触がふえるため英語を使う機会が多くなる一方、日本語に適当な訳語がみつからない。あるいは、英語のまま使っていたほうが便利である、などがあります。この傾向は、ますます強くなる一方でしょう。

 

問題の一つは、英語の単語を仮名書きにし、仮名書の発音をしているところにあります。

 

ある時のこと、internetの頁に仮名書きでイーメールアウトソーシングとかいてあって、会社の業務にうとい私には意味が分からなかったのです。このときは質問があればイーメールを送るようにと指示がありましたので、さっそく質問を送りましたところ、次の日になって、「アウトソーシングは最近出来たばかりの英語です。字引きには見つからないでしょう」という返事で、その意味の説明はありませんでした。そこでイーメールアウトソーシングと書いてあった所からはじめて、あちこちを読み回った結果、「イーメール発信を外注する」つまり自分でやらないで他の会社に委託するということだとわかりました。もともと英語で「email-out-sourcing」と書いてあればすぐにわかったことです。でなければ、「イーメール委託発信」とでも書いてくれるか、「アウトソーシング(外注のこと)」とでも書いておいてくれたら直ちに理解できでしょう。「アウトソーシング」を仮名書きで書く人が当たりまえ、わからないやつは相手にするな、ということのようですが、読むほうにはたいへん迷惑なことです。

 

英語を仮名書きの英語の問題の一つは、その意味を調べようとしても、多くの場合国語辞典には書いてないのです。英語の字引きを調べようとしても、本当の英語のつずりを知らないと、発音だけで辞書をひくことは非常に困難なことです。またその外国語が英語だという規則も保証もないのです。 

 

これらの問題の解決方法は、英語を仮名書きにしないで、alphabetで直接日本語のなかに混ぜることだとおもいます。その利点は多数あります。まず、英語の辞書で意味を調べることが出来るようになります。さらに正しい英語の発音で読むことが出来るようになります。たとえば、LかRがふくまれる発音は仮名でかくと「ラリルレロ」のどれかにあてはめられて、本当のLあるいはRで発音する人はいません。仮名にするとVとBの発音の違い、さらにはFとHの違いも区別されなくなります。また「シンプル」は「simple」とは程遠い発音なのですが、「シンプル」と発音する人はいなくなるでしょうから、ほんとうの発音をする人が増えることとおもいます。

 

日本人は一般に英語が非常に下手だと言われています。その理由のひとつは、随分英語を勉強するのに時間をかけているのに、日常つかう英語の単語を仮名書き仮名読みにしているからでしょう。

日本の子供たちの多くは、本当の英語らしい発音をする他の子供をいじめます。このため、せっかく子供が親について外国生活する機会があっても、外国滞在中なるべく本当の英語の発音を覚えないように努力する傾向があるといいます。帰国してから、いじめられぬためです。これは仮名書き英語の弊害の一つであると考えられます。

 

「英語の仮名書きをやめよう」というと、反対があると思います。英語をよく知らない人や、スペルを知らない人が困るではないかという意見だと思いますが、仮名書きにしても結局は、もとの英語を知らないと正確な意味はつかめないことを考えてください。

 

最後にもう一つだけ例をかきましょう。ミルク瓶の上にかぶせる、小さくてうすいビニールの覆いの色を規制する、日本政府の条令のなかの一節に関する経験です。「ミルク瓶のフードは、、」というくだりがあって、聞いた一瞬耳を疑ったのです。ミルクは食べ物の一種ですから、foodに違いはありません。その一方、hoodという言葉もあって、帽子あるいは覆いといういみです。もちろん発音が違いますが、仮名書きではどちらも「フード」なのです。「ミルク瓶ののフードの、、」は「牛乳瓶の覆い」のことを意味ているのですが、どうしても「フード」といわなければならないのなら「milk瓶のhood」とかけば混乱は解消します。

 

最近関西空港に着陸する機会がありました。大阪の難波まで近鉄で行くことになり、切符を買おうをしましたら、ラピートですかと聞くのです。それはラピッドのことですか、と聞きましたが、こんどは駅員のほうがわからなかったのか、返事をしませんでした。結局それは特急と言うことがわかりましたが、それならなぜ特急とよばないのでしょうか。ラピートとはフランス語かとも思いましたが、いずれにせよ、このような中途半端な呼び方では、外国からの訪問者にも分からなければ、日本人にも分かりません。それでいて、意味を聞くと、OIOIの場合のように馬鹿にされるのではないかと恐れていなければなりません。英語の社会では、こういう質問に絶対に笑ったり、馬鹿扱いをしません。

 

 第三部   日本語の改良の必要性

これまでに述べたように、伝統的な日本語を大切にし、不必要に混入される英語から日本語を守ることは重要なことですが、もう一歩つっこんで、なぜ人々が日本語で表わせる言葉を英語の単語を置き換えたがるのかという理由にも注目する必要があります。

 

その理由のひとつは日本語の非合理性と、語彙の少なさに起因しています。日本語のおおくの動詞は名詞に「する」をつけたもので、本当の動詞は数が非常に少ない。一方、英語では動詞が豊富で、名詞に「する」をつけたのに相当する言い方は非常に少数です。日本語のほとんどの名詞は漢字の裏ずけがあります。新しい文化が中国を通ってはいって来た時代は都合のよいことでした。しかし、明治に入ってから、新しい文化は中国からではなく、西洋からになり、漢字で表わせない単語や表現がはいってくるようになり困難が起こりはじめました。しかし西洋からくる言葉の数がすくないあいだは、訳語をつくってすませたし、現在の混乱を予想もしなかったのでした。

 

ところが最近のように、外国との行き来が激しくなる、またインターネットが発達し、毎日のように英語圏との接触が行なわれるようになって、日本語のままでは表現出来ないことが、あまりに多数出来だしたのです。

 

また英語になれてみると、英語の合理性に気がつきます。たとえば、漢字は象形文字だから一見して意味がわかるという利点がよく指摘されますが、聞くときにはこの利点は失われています。一方英語の単語は、聞いただけでその言葉の持つイメージが浮かびあがることが多い。たとえば、integrateという単語がありますが、「一つにまとめあげる」、「一体化する」、「統合する」などの意味があります。その逆をあらわす言葉は、前にdisをつけてdisintegrateです。日本語では「分解」、「崩壊」、「分裂」となり、「一体化する」、「統合する」とは全然こ異なった字が使われます。英語ではdisをつけることによって、disorder、dishonor、disqualifyなど、反対の意味になる言葉がたくさんあります。integrateの意味を理解していれば、disintegtateというのは、一つにまとまっていたものが、名にかの理由で、形が変わり部分がちぎれに徐々に崩壊してゆく様子が頭にうかんでくるのです。

 

もう一つの例として、「哲学」をあげましょう。この言葉は「哲学」の専門家つまり「哲学者」でないと使えない言葉ですし、非常に狭い範囲の言動にしかあてはめない言葉です。それでいて、英語に訳すと、philosophy。其の意味は、知識の探求、考え方、原理でありますから、非常にわかりやすく、だれにでも当てはまります。ですから、「哲学」は「形而上学」をやっている人たちだけの言葉なのにたいし、philosophyはすべての人が使える言葉です。したがって、「哲学者」でない人が「哲学」を論じることは禁じられているようなものですから、そのような意味の言葉を使いたいときには「私のphilosophyは」というふうに英語で言うほかないわけです。

 

若い人たちが少し英語になれると、日常会話のなかに英語の単語を使ってしまう大きな理由の一つが、英語のこのような合理性の魅力にあります。

 

前にも述べたように、日本語の名詞のほとんどは漢字を持っていて、漢字がその言葉の意味を表わしてしています。ところが、その漢字には当用漢字制限のために、新しい時代と共に必要になる新しい言葉を創造したり、新しい概念を表わす能力がありません。ここにも、止むをえず英語の単語が出現する原因がひそんでいます。

 

日本語の改良は非常に慎重に時間をかけてやらなければならないことです。しかし、ただ日本語の使い方を制限するだけではなく、伝統的な日本語を守る一方、新しい時代の言語としての役割を全う出来るよう改良していかなければ、現在の混乱はさらに激しくなるばかりでしょう。国語審議会のような公の機関にはぜひこの問題の解決への先導をしていただきたい。また、出版社、放送局、新聞社、国語学会などの機関でも真剣にとりあげていただきたいと考えます。

 

さらには、学校の国語、英語の先生が協力して、どうすれば分かりやすく美しい日本語を書き話すことができるかの研究会を開いたり、生徒の指導をしていただくわけにはゆかないでしょうか。

 

これまでは、国語の先生は、仮名書外来語は国語でないとしてとりあわず、英語の先生は、日本語に混ぜられる英語は仮名書きのため、英語の先生の専門外のこととして考えてきました。したがって、これだけ仮名英語が増えているのに、日本語と英語をどのように混ぜて使えばよいかについで指導する専門家がいないのです。この問題の解決法の一つは、すでに述べたように、日本語に混ぜる英語は非常によく知られた言葉でないかぎり、ほんとうの英語のつずりで書くことでしょう。そうすれば、それらの意味の解釈やスペリングを教えることが英語の先生の担当分野であることも明確になりますし、国語の先生も英語をどのように国語に混ぜてゆけばよいかの指導に責任があることを認識するでしょう。英語をいいかげんな仮名書きしている間は、その意味さえも定義出来ぬことが多く、だいたいの意味は教えられても、辞書の裏付けがないために、手の付けようがないのです。

 

日本国語をどのように改良してゆけばよいかという問題にたいする具体的な答えは、専門家でない私にはできません。非常におおくの研究が必要でしょう。やはり、公の機関が先導して、研究を奨励し、また議論の場を提供すべきだとおもいます。

 

最後に

 

最後に、国語の直接の内容ではないが、非常に関連の深い問題を指摘したいと思います。それは、最近のテレビ番組の傾向として、音量の高い擬音や背景音楽が多すぎて、本当の内容が聞き取りにくくなってしまったことです。科学番組、社会問題、歴史番組、どれもこれも最初から最後まで、つまらぬ音楽の鳴らしっぱなしか、チン、デデン、キイーン、ジャラジャラジャラなどのがいたるところで鳴らされ、じつに騒々しい。たとえば、危惧すべき社会問題のときは、解説の背景でキキキキキキとかコーキーコーキーコーキーコーキー、あるいは音程で言えば、「ドソラソドソラソドソラソドミシラシミシラシミシラシミシ、、、」といった不愉快な旋律を絶え間なく聞かせます。でなければ、ギターかピアノかフルート、オーボエなどの演奏がかならず解説につきまっとて流されています。こういう高音の擬音雑音楽を背景にしゃべられると、どんないいかげんな日本語でしゃべっていても、音に隠されて見分けがつかなくなります。話しの内容や言葉の意味をよく考えながら放送を聞くことは、不可能になりました。聴視者が自分で考えるまえに、放送局のほうが騒々しい音で、聴視者の感情や思考を規制してしまうからです。

 

科学番組でも番組の始終音楽が流されていて、たとえば、解説者が「ここの海峡では海流の早さが時速30kmにも達することがあります。そしてこのあたりにはユニークナなまこがすんでいます」と話していとすると、同時に、音声より高い音量のトランペットの演奏「パパパパパー、パパパパパー、パパパパパー、パパパパパー、パパパパパー、パパパパパー、パパパパパー、」その旋律は「どみそれどー、れどそれみー、れふぁしみれー、。。。。」など、単純きまわりなく飽き飽きする音楽。これを同時に聞いていなければ、科学内容を聞くことは不可能です。

 

テレビ番組でこのような音が多いのは、NHK自身が、日本語がもはやそれだけでは用をはたせなくなったと考えているのではないかと思われます。そのために、動物的な伝達方、つまり危険があるときは、遠方の仲間にも聞こえるように、主題(たとえば「農薬の害」)を提示したあとは不協和音でコーキーコーキーコーキーコーキーを繰り返しているのでしょう。視聴者は猿か野鳥として扱かわれているのです。逆に美しい自然の紹介をするときは、日本語のことばや画面だけでは視聴者に美しさが通じないのか、音楽によって、この風景はは美しい美しい美しい美しい美しい美しいと伝えているのでしょう。(私には美しい音楽にも聞こえないのですが)。やはり視聴者は日本語が理解できるまともな人間ではなくて、頭脳を失った半人間、あるいは半動物として扱われています。

 

日本の中では、高い教育を受けた人で、テレビを全くみない人が急激にふえています。「テレビはくだらない」という言葉を多くの友人(大学教授、医師、国立研究所研究員、等)から聞かされます。また外国では、NHKテレビ番組の一部を日本語教育の教材に使おうとしても、生徒たちは「I cannot stand it」、つまり背景音のうるささに「もう我慢できない」といって聞こうとしないことが報告されています。私の家庭では衛生放送による日本語のテレビ(NHK)が入りますが、無意味な雑音や音悪に汚染された日本語を聞いてはいられないので、最小限度の時間以外は音なしでテレビをみています。

 

話し言葉としての日本語を代表する放送局に責任があるのか、聴視者が動物的伝達方を必要としているのか、私には判断がつきませんが、いずれにしても、日本語の大きな破壊と考えるほかありません。