2003.11.13

 

弔辞

 

森川正信君の霊前に捧げます。

奥飛騨の新穂高温泉に、京都大学工業化学科で一緒に学んだ同窓生が、夫人共々集まり、旧交を温めてから、まだ、ひと月も経っていません。それがもう、別れの日が来てしまいました。残念です。

 

 私が君と初めてあったのは、昭和二十九年の春,京都大学宇治分校でした。大津市の膳所高校から来た君は、行動的で、歯切れよく語り、頭の回転が速く、四国の田舎から出てきた私には、大秀才に見えました。

それから、吉田分校、百万遍の工業化学教室と四年間一緒に学びました。工業化学科では、君は小田良平先生の有機合成講座に進みました。

 

 その後、私は東洋レーヨン株式会社の大津にある研究所に入りました。君は修士課程を終え、二年遅れて、同じ東レの研究所に入って来ました。それから、今日まで、長いお付き合いが続いています。

 

 今、弔辞を霊前に捧げながら、思い出すのは、君の結婚式の司会をした時のことです。大津の丸屋町のお宅に伺い、打ち合わせをしました。奥様の栗東の古いお屋敷にも伺いました。

 

 東レでは、君は中央研究所、基礎研究所、繊維研究所、樹脂研究所と幅広く、活躍されました。その間、ドイツのミュンヘン大学ヒュィスゲン教授のところに留学もされました。基礎研究所で、辻二郎さんと一緒に、有機パラジウム触媒について、世界に先駆ける大きな業績を上げられたことは、忘れられません。

 

四十歳代後半からは、本社の経営企画室で活躍されました。中でも、伊藤会長のブレーンとして、顕著な業績を上げられました。とくに、学会、経済界、霞ヶ関などの社外活動で、化学の専門知識を十分に発揮されました。伊藤会長と日本化学会との橋渡しを推進しました。伊藤会長の篤い信頼を得ていました。霞ヶ関の若手官僚からも、大きな信頼を受けていましたと聞きます。会長の片腕として、海外の学会・委員会にも、よく参加されていました。

 

 我々、大学の同窓生が、君の体の変調に気付いたのは、二年前の奈良での同窓会でした。

それから、数人の友人たちで相談し、君の病気を同窓会のホームページで公表し、激励しようということになりました。

 

西村三千男君の「森川さんが病気」という記事が今でも、ホームページに残っています。君からも、細かい病状報告がありました。病院や医師の選択など、積極的な闘病生活の様子と生きることへの執念が伝わってくるメールが寄せられました。

 病状が快方に向うと、激励会とか、全快祝いといって、六本木のドイツ料理店に、夫婦同伴で集いました。

 

君にとって、最後のアイソマーズ同窓会となった新穂高温泉の旅のあと、君から幹事の伊藤君に宛てられたメールがあります。

「どうも有り難う。楽しかった。久しぶりに皆さんの元気な顔を拝見し、飲むべきものは飲み、おまけに晴天に恵まれ、昔馴染みの槍や穂高に再会でき、最高でした。次回は我が第二の故郷・ミュンヘンにも来てもらえるとのこと。体力を整え、現地で旗を振って、出迎えたいですね」

とあります。もう、それも叶いません。

  

学生時代から山とスキーを愛した君は、ロープウェイで登り、久しぶりにみる中央アルプスの山並みを感慨深げに眺めていました。

再来年の同窓会は、君が青春時代に学んだ、ドイツでやろうという話も進んでいます。

「ドイツなら任してくれ」

と二年先の計画立案に積極的であった君も、もう、今はいません。我々の同窓会の由来でもある異性体・アイソマーを、リービッヒとウェーラーが発見したギーセンの地も、ベンゼンの化学構造を発見したケクレが、活躍したハイデルベルグも、候補になっています。一緒に行けないのが、残念です。

 

 自分の体調をよく知っていた君は、「懐かしい友人にも会っておきたい。懐かしい山々をも見ておきたい」という気持ちで、アイソマーズ同窓会に参加されたのでしょう。快晴の天気は、君の願いを叶えてくれました。

 

ご冥福を祈ります。

 

平成十五年十一月十三日            

大学と東レを通じての友人       武山高之