2003.9.11

西 村 三千男 記

 

「自給自足生活」

 

我々の世代が幼少年期を過ごした戦時下は食料を始め諸物資が不足していた。私の生家

は鈴鹿山麓の農山村にあったから尚更かもしれないが、日常の食料品は殆んど全て自給自

足であった。子供の頃慣れ親しんだ自給自足の食材の中には図らずも中村さんの列挙され

る健康食品の多くが含まれていた。

 

その幼少時の食習慣は現在の我が家の食生活にも影響している。このことが生活習慣病

のリスク軽減に繋がることを期待している。しかし、私より遥かにヘルシーな生活習慣を

生涯貫いていた父は前立腺ガンで、兄は食道ガンで逝った。父も兄も酒、タバコとも全く

嗜まなかった。ことに父はコーヒー、紅茶等とも無縁で、煎茶ばかりを喫していた。

 

1.緑茶、番茶

 

  私の郷里、滋賀県では「宇治は茶どころ、茶はまんどころ」と云う。この「まんどこ

  ろ」は永源寺町(滋賀県神崎郡)付近を指している。滋賀県全般に緑茶(特に煎茶)

  を日常的に飲む習慣が盛んである。来客があれば必ず煎茶をいれる。隣近所が寄ると

触るとお茶を飲む。家族でも、独りでも時間の余裕があればお茶を飲む。私の育った

村落では、このお茶も自給自足であった。どの家にも自給するに充分な面積の茶畑が

あった。和紙を重ね張りした原始的な箱型の「ほいろ(焙炉)」を備えた製茶工場も

あちこちにあった。助け合いで茶摘みした茶葉はこの工場に持ち込み賃加工で仕上げ

てもらう。茶畑の手入れや施肥に精を出すことで味の良い煎茶を収穫するように努力

し、お互いにお茶の味を自慢しあっていた。

煎茶になる新芽を摘んだあと古い茶葉を摘んで「焙じ番茶」にし、どの家庭でもこの

番茶を煮出して冷やしたものを常備していて生水の代わりに飲んでいた。

 

2.梅、しそ、しょうが

 

  梅干と紅ショウガは自家製保存食としてどこの家庭でも1年分以上を在庫していた。

  梅干は遠足のオニギリのタネに、また紅ショウガはお祭りのバラ寿司や運動会の巻寿

司の彩りに欠かせなかった。

原料の梅は各家の田畑の傍などに散在する梅の木から収穫した。栽培のイメージでは

  ない。しそ(紫蘇)は畑やヤブに自生していた。梅も紫蘇も村落全体として充分な量

  が収穫できるし、さりとて余剰分は売れる訳ではないので足りない分はお互いに融通

  しあっていた。

  生姜は畑で栽培していた。何故かハジカミと呼んでいた。新生姜を紅ショウガの原料

  に、そして1年たった種生姜は「 ひねショウガ〜根ショウガ〜ふるせ」と称して次項

の薬味として使った。

 

3.ひねショウガとわさび

 

  畑の片隅に「山わさび」(と名付く植物)があった。今思うとホースラディッシュのこ

  とかもしれない。しかしながら、薬味としてこれを使った記憶がない。薬味はいつで

  もおツクリ(お刺身のこと)の薬味でさえも、ひねショウガを卸して用いていた。海

に遠い滋賀県では海魚が少なく、魚といえば「川魚、湖魚」であったから臭味消しに

は卸しショウガが適していたのかも知れない。

 

4.みょうが(茗荷)

 

  子供の頃からミョウガのコ(花穂)の酢の物が大好きであった。ミョウガはヤブや谷

あいの沢に自生していた。ヤブや山には地主がいるが「入会権」の不文律があって、

マツタケ以外の「山野の幸」は誰が収穫してもよかった。つまりマツタケ以外は金銭

価値がなかった。村落全体の需要以上に収穫できるので先を争う必要は全く無く、誰

もその日の必要分だけを採った。

落語に「茗荷宿屋」という演目がある。茗荷を多食すると物忘れし易いとの巷間俗説

をテーマにして笑わせるが、根拠は知らないし信じてもいない。

 

5.牛蒡

 

  牛蒡は私の生家では栽培していなかった。近隣の山の傾斜地に在る村落では傾斜地の

  畑で牛蒡栽培が盛んであった。傾斜地の方が収穫時の労力が節約出来たからである。

  そして傾斜地の村落間で牛蒡の味や姿の良さを競争していた。それを金銭で売買する

のではなく贈答に使っていたように記憶している。我が家へは各村落の知り合いから

夫々の牛蒡が到来していた。

 

6.粒山椒、葉山椒、山山椒

 

  どこの家にも山椒の木が数本植えられていた。粒山椒は単味の佃煮に、また昆布の佃

煮の風味に使われた。葉山椒は小鮎の飴煮など川魚、湖魚の臭味消しに適していた。

山山椒の若葉は薄味の佃煮にすると絶品の味となるが、手間をかけて多量の葉っぱを

煮てもほんの少しの出来上がりとなってしまう。私の好物と承知して、今でも季節毎

に郷里の兄嫁さんが送ってくれる。

 

7.味噌、醤油

 

  醤油は自給自足しなかったけれど、味噌はどの家も真冬のある1日に1年分以上を仕

込んだ。早朝から家族総出で大鍋で大豆を煮込むことから始まる長い1日であった。

原料大豆は田圃のアゼ豆、麹もタネ麹から自家製造していた。

 

                                    以上