(11)専門の建築学を捨てたケクレ
 
 ケクレは1829年、リ-ビッヒと同郷ダルムシュタットで生を授かった。リービッ
ヒが貧しい薬品屋の家庭で、いわば逆境の児として育ったのに対し、ケクレの家柄は
父が高級官僚であった関係で、裕福であり、周りからは常に羨ましがられる家庭環境
で育った。学校では、将来を嘱望される優等生でもあった。父は息子の将来の進路を
建築方面と定め、子もまた唯々としてこれに従った。
 
 しかし、ケクレが大学に進む準備をしている丁度その頃、父が急逝するという不幸
に見舞われるが、父の遺志通り、彼はギ-セン大学に入り、建築科の学生になった。
18歳の秋のことであった。自在画や製図においても、彼は見事な技量を謳われ、数学
の実力も大したものであった。従って、自分も含め、家族もみんな、ケクレが立派な
建築家の道を歩むことに何の疑念も抱かなかった。
 
 ところが、翌年の新学期に至り、聴講課目のなかにリービッヒ教授の実験化学を加
えたことが、ケクレの運命を大きく変えるきかっけになろうとは!その時は未だ本人
も気が付いてはいなかった。なるほどリービッヒ先生の講義は面白い。化学という
学問の神秘さに魅せられる思いだ。加えて情熱溢れる先生の人格!・・・ケクレの
化学への憧れは次第に増幅していった。時とともに彼の心は激しく揺れた。遂に建築
志望を翻して、化学に転向する決心を固め、退くことを許さぬほどに思いつめた。
 
 ケクレの転科希望に家人も親戚も驚いた。冗談を言うんじゃないよ!化学が面白いっ
て?それは青年の一時的な浮かれ熱だよ。それに化学科を卒業してもえらくなれない
よ。建築科なら将来有望な官職にもつけるというのに。と、周りは大反対であった。
 
 時あたかも、18489月、フランクフルト議会の擾乱騒動がきっかけで、学園の平
静をも脅かす状態となっていた。危うきに近寄ることを避ける意味もあって、結局、
ケクレは一時ギ-セン大学を休学して、当分の間気持ちを落ち着かせ、将来の進路を
もう一度考え直すということになった。
 
 ギ-セン大学を休学中もケクレは、実家の近くのダルムシュタット工業専門学校に
通って勉強を続けたが、化学者への夢はますます募るばかりで、彼の決意は揺るぎの
ないものであった。彼の熱意は遂に家人と親類を説き伏せた。1849年の夏、ケクレは
意気揚々と再びギーセン大学のリービッヒの門を叩いた。
 
 その後のケクレ:
 1851年、リービッヒもケクレの力量を認め、助手として大学に残るように勧めたが、
その頃のリービッヒは農芸化学の方面に関心が移っていた。あくまで純正有機化学を
研究したいケクレは、結局、自らの進路は自分で開拓して行こうと決心し、見聞を広
めるためにパリ、次いでスイス、さらにロンドンで学んだ。
 1855年、ブンゼンがいる名門ハイデルベルグ大学に無給講師として勤務するが、ブ
ンゼン先生の関心は分光分析で、どうも有機化学は興味なく、ケクレはアドルフ
イヤー(1835-1917、インジゴの合成、ミュンヘンでリービッヒの後任、のちノーベ
ル賞)を弟子にして有機化学を研究した。
 1858年、招かれてベルギーへ。
 1865年、蛇が自分の尻尾をくわえてぐるぐる廻る夢を見て、ベンゼンの構造を思い
付き、「ベンゼン構造論」を発表。
 1867年、ボン大学へ。
 1890年、「ベンゼン構造論」25周年を記念して、第1回ベンゼン祭が開催される。
 1896年、ボンで死去。
 
次回は「怪事件と蛇の夢」
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 伊 藤 一 男
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