(5)リービッヒ、ミュンヘン大学へ去る
 リービッヒが30代の後半、すでに押しも押されぬ大化学者となった彼を、ヨ-ロッ
パ各地の大学が招聘しようとする申し出が相次いだ。しかし、リービッヒはこの小さ
な田舎町の大学を去る気持ちには少しもなれなかった。
 
 1851年にはハイデルベルグ大学からの招きがあった。ハイデルベルグと言えば、当
時では全ドイツの大学教授の憧れの的であり、しかも化学実験室の新築や厚待遇とい
う好餌も重なっていた。にもかかわらず、これさえもリービッヒは断った。リービッ
ヒは終生ギーセンの人となるか、と誰しもがそう思った。しかし、翌年の1852年(彼
49歳の年)、突然この地を引き払うことになった。行き先はバイエルンの山紫水明
に都、ミュンヘンであった。
 
 当時のバイエルンの国王はマキシミリアン二世(1811-1864)、先代はルートヴィ
ヒ一世、父子ともに名君であり、先代は国都ミュンヘンを芸術の都たらしむべく、優
れた芸術家を招いたが、マキシミリアン二世はさらに芸術のみならず学術の都ともあ
らしむべく、科学界の名家を招いた。リービッヒもそのうちの1人であった。いや、
国王がもっとも熱心に、いわば三顧の礼を尽くして招いたのだった。
 
 リービッヒがミュンヘン大学からの招きに突如応じた理由は、もちろん招聘条件で
あったが、きっかけとなったもう一つの理由があった。その頃、彼は心身共に疲れ切っ
ていた。親友のヴェーラーへの手紙にも「・・・研究室や学生実験室に足を踏み入れ
ると、俄然具合が悪くなる。今までは、学生実験を指導するときは何にも優る楽しみ
でであったが、今は苦しくて苦しくて堪らない。・・・」と心労を吐露した。この28
年間、学生の教育指導に余りにも心血を注ぎ過ぎて、遂に精根尽き果てたのであった。
 
 ミュンヘンからの招聘条件は、学生実験の指導には責任を負わなくてもよい、ただ
講義を行うだけでよい、というものであり、リービッヒはこれを快諾した。
 
 ミュンヘン大学でのリービッヒの負担は、講義だけであったので、それ以外の時間
には自分自身の研究に没頭できた。彼の関心事は、バイエルンの農業を振興すること
であり、それは国王の希望でもあった。かなり以前から彼の研究対象は、化学から農
芸化学そして農業政策へと移行しつつあったが、ますますそれに拍車がかかった。
 
 結局、ギーセンからミュンヘンに移ったリービッヒは、20年を超える学究生活をこ
こミュンヘンで送り、1873年、病がもとで69歳と11ヶ月の生涯を閉じた。亡くなった
のは418日であったが、その直前の43日には兄貴分のヴェーラー宛に、体調がよ
くないこと、できればウィーンへ旅したいとの便りを認めた。しかし、これが最後の
手紙となった。
 彼の胸像つきの墓は、ミュンヘンの南墓地にある。 
 
 ついでに、ミュンヘン時代のリービッヒを巡るこぼれ話。
 ミュンヘンに移って間もない1853年の 2月、リービッヒの発案で王室や貴族に対し
て化学についての講話会がおこなわれることになった。その中には、先代のルートヴィ
ヒ一世の姿もあった。言わずと知れた、あの舞姫事件で退位を余儀なくされた元国王
である。初回は「焔について」、2回目は「炭素と炭酸」と順調に行ったが、問題は
4回目。いかにもリービッヒらしく、高貴な方々の前で実験デモンストレーションを
やった。酸化窒素ガスの中における二硫化炭素ガスの燃焼実験であった。実験は見事
に成功し、青色閃光が一同を魅了した。拍手喝采であった。アンコール!の要望に応
えて、再度繰り返したところ、大爆発とともに、ガラスフラスコが木っ端みじんに飛
び散った。
 
 当の本人、リービッヒは負傷。さらに、先王妃や王子の顔からも血が滴っているの
を見たリービッヒは、さすが動転し、生きた心地もなかった。
 
 しかし、事故がこの程度ですんだことは、不幸中の幸いであった。
 王家の人々は、リービッヒの過失を咎めることなく、むしろ彼の容体を案じ、老王
みずから病院に見舞われた。さらに、この講話会が中断されることなく、まもなく再
開されたという。王家の人々の何というおおらかさ!何という思いやりであろうか。
 
次回は「リービッヒを追慕する式典」
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 伊 藤 一 男
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