(7)ブンゼン、ハイデルベルグへ
 
 ブンゼンバーナーでお馴染みのブンゼンは、ヴェーラーやリービッヒより一世代あ
との1811年の生まれ。彼が活躍した場所は主としてハイデルベルグである。47年間、
この地において研究者として、また教育者として倦まず怠らず、実りの多い生涯を送っ
た。しかし、彼がハイデルゲルグ大学に赴任したのは意外と遅く、齢すでに41歳であっ
た。普通の人ならもう人生の下り坂であるが、ブンゼンは未だ青雲の志に燃えていた。
むしろハイデルベルグ時代が、彼にとって面目躍如たる活躍の時期といえる。
 
 ハイデルベルグに落ち着くまで紆余曲折があったので、いま一度、ブンゼンの経歴
を振り返ってみよう。
 
 ゲッチンゲン大学で化学を学んだのち、ブンゼンは1年4ヶ月もの長い間、ヨーロッ
パ各地を遍歴した。鉱山や工場を見学したり、岩石の分析をするなど、修行に励んだ。
その間、1832年にはリービッヒを訪ねてギーセンまでやってくるが、そこで偶然ヴェー
ラーにも出会ったことは、前にも述べた。さらに、パリからリービッヒのもとに留学
中のゲイリュサックの息子にも紹介され、ブンゼンは逆に親父さんへの紹介状をちゃ
っかり手に入れた。
 
 長い遍歴の旅をようやく終えて故郷に戻ったブンゼンは、1834年、母校のゲッチン
ゲン大学に講師として勤務することになった。正教授は彼の恩師シュトロマイヤー
であったが、1835年、病がもとで急逝したため、ブンゼンがしばらく代理を務めた。
1836年、シュトロマイヤーの後任が決まった。一体誰が来るのだろうか、とブンゼ
ンの心は期待と不安が交錯したが、何とあのヴェーラーその人でった。
 
 そのまたヴェーラーのあと、カッセル工業専門学校の教授のポストにブンゼンが推
挙されたのであった。もちろん、ヴェーラーの強力な推薦が効いたのは言うまでもな
い。ブンゼン自身も望外と感じたこの光栄に、両親も心から喜んだ。
 
 カッセルの化学教室の貧弱さに失望したブンゼンではあったが、この時期の彼の業
績(ヒ素中毒の解毒剤や有機ヒ素化合物)は各方面から称讃され、早くも化学界第一
線の研究者としての名声を博するに至った。しかし、その代償でもあるまいが、実験
に没頭する余り、薬品の爆発で右眼に傷を受けてほとんど失明状態になったのもこの
頃であった。
 
 1839年から1851年までの11年余り、ブンゼンはマーブルグ大学で教鞭を取った。こ
の間、彼はギーセンのリービッヒ研究室を見習って、学生みずから実験しつつ化学を
学ぶことができるような設備を施した。
 
 18514月にブレスラウに移ったブンゼンではあったが、早くも翌年の9月には、こ
の地を去った。彼の運命を決定付けるハイデルベルグ大学からの誘いがあったからで
ある。思えば、ゲッチンゲンに生まれ、ここで学び、化学教師としてのスタートを切っ
たブンゼンは、次はカッセル、その次はマーブルグ、最後はハイデルベルグとその進
路は一筋に南へ南へと向っていた。ブレスラウはかりそめの道草であった。
 
 ハイデルベルグ大学からの招聘は、老教授グメーリンが引退を表明したため、後任
を決める必要があったからである。候補者にはリービッヒ大先生の声も挙がっていた
が、彼はミュンヘンを希望したので、結局ブンゼンに落ち着いたことは既に述べた。
 
 かくて、いよいよブンゼンがハイデルベルグに乗り込んで来た。一風変わったとこ
ろがあるが、意気軒高の41歳、未だに独身であった。
 
次回は「ハイデルベルグの三つの星」
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 伊 藤 一 男
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