(思い付きで始めた「ドイツ 化学史の旅」エッセンス集ですが、ここまでくると皆
様から激励や情報のご提供等が相次ぎ、大変嬉しく思っております。この場をお借り
して厚く御礼申し上げます。)
 
(8)ハイデルベルグの三つの星
 
 18529月、ブンゼンは無事ハイデルベルグ大学に着任したが、就任の条件として、
化学教室を新しく建設するということが含まれていた。ブンゼンが自ら設計し、それ
1855年夏に新築落成した。二階建てであり、官舎としてのブンゼンの居室も二階の
一角にあった。(この建物は現在も残っているらしい。)
 
 話は前後するが、ブンゼンがハイデルベルグに転ずるや、2年後にはキルヒホッフ
1824-1884)が物理学の教授として、またその数年後にはヘルムホルツ(1821-1894
も生理学の教授として赴任してきた。かくして、ブンゼン、キルヒホッフそしてヘル
ムホルツという三巨匠が顔をそろえ、ハイデルベルグ大学の豪華絢爛の時代が始まっ
た。一つの大学が、かくのごとき著名な学者を三人も擁するとは!まさに前代未聞の
盛事であった。彼等はハイデルベルグの三つの星と呼ばれた。
 この三つの星が揃って大学構内を散歩する風景がしばしば見られ、それは壮観その
もの、俗人には近寄りがたい雰囲気を醸し出していたという。
 
 講義室において、また実験室において、学生達を指導するブンゼンの態度と意気込
みは極めて賞嘆に値するものであった。彼の実験を重視する化学指導は、リービッヒ
のそれを彷佛とさせた。学問に対する厳しさや弟子たちへの愛情溢れる包容力もそっ
くりであった。しかし、ただ一つ異なることがあった。短気なリービッヒはしばしば
癇癪をおこしたが、ブンゼンは決してそのようなことはなかった。弟子たちを見るブ
ンゼンの目はいつも慈愛に満ちていた。学生たちがPapa BUNSENと愛
称をもって呼ぶようになったのは、この表れであろう。少年時代はけっこう怒りっぽ
い性格のブンゼンが、長ずるに及んで、なぜこのように柔和な性格に転じたか、ブン
ゼン七不思議の一つとされている。
 
 ハイデルベルグにブンゼンありの名声が広まるにつれて、大志を抱く少壮学徒
が踵を接して馳せ参じるようになった。いまやギーセンにはリービッヒなく、化学の
メッカもギーセンからハイデルベルグに移った感があった。
 
 ギーセン時代にリービッヒを襲った教育疲労も、ブンゼンには無縁であった。疲労
どころではない。弟子が、朝、どんなに早く化学教室へ入っても、もうそこにはブン
ゼンの姿があった。ブンゼン先生は一体何時に起きるのか?これも七不思議の一つで
あった。
 
 ハイデルベルグ時代のブンゼンの業績は多岐にわたるが、馴染み深いのは、例のブ
ンゼンバーナであり、近くの工場で大量に生産され、非常な勢いで普及したという。
水流ポンプ(アスピレーター)も同じ原理であり、彼の考案らしい。学問的レベルの
高い業績としては、キルヒホッフと共同による分光分析の研究。セシウムとルビジウ
ムの発見もこの頃であった。
 
 ブンゼンは78歳でハイデルベルグ大学を勇退するが、後半はさすが研究者としての
自分の力の限界を感じとり、もっぱら教育者として弟子の指導にあたった。
 彼が育てた人材も多すぎて数え切れないが、われわれ学生時代の教科書で懐かしい
あのトレッドウェルやガッターマンもそうらしい。ただし、世代がずっと若いガッター
マンがハイデルベルグに憧れて来た時は、ブンゼン既に老いたりと失望して、間
もなくベルリンへ去ったとのこと。
 
 ついでに、こぼれ話
 ケクレも若い頃、ハイデルベルグのブンゼンのもとに弟子入りするが、幸か不幸か
ウマが合わず、それほど親密ではなかった。2年ばかり居たが、ベルギーから招かれ
てケクレはハイデルベルグを去る。
 このとき、なぜブンゼンがケクレを引き留めなかったのか!もし引き留めていた
ら、スペクトル分析とベンゼン構造の二つの大論文が同時にハイデルベルグから発表
されていたろうに!いや、しかし、一つの大学として科学上の栄光、あまりに輝かし
過ぎるというべきである(弟子クルチウスの回想)
 
次回は「ブンゼンを巡るエピソード」
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 伊 藤 一 男
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