2005.8.30

化学史の旅-武山―(5)

ミュンヘンにおけるリービッヒ

武山高之

 

 ミュンヘンの中心にあるマキシミリアン広場へリービッヒ像に会いに行きました。行ったのは、アイソマーズ化学徒だけで、奥さん方は行きません。

そこには、衛生学者のマックス・フォン・ペッテンコファーと向かい合って、リービッヒの大きな坐像がありました。訪れる人は少ないようですが、存在感があるものです。ちょうど居合わせた中国人学生にシャッターを押してもらって、皆でカメラに収まりました。

 こんなに大きな坐像があるリービッヒはミュンヘンでも英雄なのでしょうか。ミュンヘンは偉大な科学者を輩出していますが、中でもリービッヒは大切な人なのでしょうか?

 

 リービッヒがミュンヘン大学に招聘されて経緯は伊藤さんの資料に詳しく書かれていますが、185252歳のことです。招聘したのはマキシミリアン広場で向いに座っている衛生学者のマックス・フォン・ペッテンコファー(1818~1901)です。

 

 その頃、ミュンヘン大学の自然科学教室はどのような状態だったのか調べてみました。リービッヒが就任する約40年前には物理学教授としてヨーゼフ・フォン・フラウンホーファー(17871826)がいました。彼は太陽光スペクトル中にフラウンホーファー線を発見し、物理の教科書に名を残しています。1814年のことです。彼はガラス職人から大学教授になった人で、実験装置を作るのが非常に上手だったそうです。このフラウンホーファー線の機構を解明したのが、ブンゼンとキルヒホッフです。

 

 リービッヒと同時代の人では、リッビッヒと同じ年に物理学教授に就任したゲオルク・ジモン・オーム(17871873)がいました。電気学で有名な「オームの法則」で名を残した人です。彼は錠前師の息子で苦労した人で、教授に就任したのは65歳だったそうです。リービッヒより10歳ほど年上です。もう一人がリービッヒを招聘したペッテンコファーです。リービッヒよりも10歳ほど下です。この人については、私は全く知りませんが、都市衛生の面で功績があり、多くの市民を疫病から救った人だそうです。

 

リービッヒは52年に就任してから72年に亡くなるまで、ミュンヘン大学の化学教授でした。ギーセンの小さな大学で輝かしい若い日を過ごし、「元素分析」「ラジカル(基)の概念の提案」「異性体の発見」「有機酸の構造研究」「農芸化学」「動物化学」の基礎化学で大きな業績を残したリービッヒはミュンヘン大学ではどんな仕事をしたのでしょうか?

 ここでは、彼は応用化学における多くの発明をしています。肉の抽出物、ブイヨン・プレート、幼児用食品、病人用食品、幼児用スープ、ベーキング・パウダーなどの食品関係が第一に挙がります。汚泥の肥料化やリン鉱石からの肥料作りも行ないました。また、シルバー・ミラーの発明もしています。

 また、多くの著作を残し、講演活動も活発に進めています。さらに後進の指導を熱心に行なっています。何よりも大きいのは、ドイツに、そしてミュンヘン大学に化学の伝統を残したことです。 

 

72年にリービッヒが亡くなった後、75年に後を継いだのは、アドルフ・フォン・バイヤー(18351917)でした。彼はリービッヒの孫弟子に当たります。バイヤーはハイデルベルク大学のケクレの下で化学を学び、有機染料およびハイドロ芳香族化合物の研究(インジゴ)で、1905年ノーベル化学賞を受賞しています。リービッヒ一門で重要な人物であり、フェノールとフォルムアルデヒドの反応研究も行っている。バイヤーの師のケクレはリービッヒに魅せられて化学の道を選んだ人です。

バイヤーはミュンヘン大学教授就任に際して、助手として、エミール・フィッシャーを伴ってきました。エミールは弟のオットー・フィッシャーとトリフェニルメタンの構造研究もしています。この二人はリービッヒの曾孫弟子に当たります。エミール・フィッシャーは後にベルリン大学の教授になり、「糖類およびプリン誘導体の研究」で1902年のノーベル化学賞を得ています。

 1916年にバイヤーの後任として、ミュンヘン大学の化学教授になったのは、バイヤーの弟子のリヒャルト・ヴィルシュテッター(クロロフィルの研究で1915年ノーベル化学賞)でした。リービッヒからみると彼も曾孫弟子に当たります。

 

 エミール・フィッシャーの成果はヘキストをはじめとするドイツの大化学工業で活用され、その卒業生をバイエル、ヘキスト、バスフという化学会社に大量に送り込みました。

 さらに、エミール・フィッシャーはネルンスト(熱力学の研究で1920年ノーベル化学賞)やオストヴァルド(触媒作用、化学平衡、反応速度の研究で1909年にノーベル化学賞)とともにカイザー・ヴィルヘルム研究所設立に貢献しました。この3人もリービッヒ一門です。カイザー・ヴィルヘルム研究所にはさらに、ヴィルシュテッター、オット・ハーン、フリッツ・ハーバーのリービッヒの流れを汲むノーベル化学賞受賞者が参加しています。

このようにまとめてみると、リービッヒがドイツ化学の祖としての非常に重要な人物だったことが分ります。

 

 化学から離れますが、19世紀末のミュンヘンには、このほかにまだ多くの科学者・技術者たちがいました。ミュンヘン大学物理学教授で1901年にノーベル物理学賞を受賞したレントゲン(18451923)、ディーゼルエンジン発明(1892年の特許取得)のルドルフ・ディーゼル(18581913)ミュンヘン工科大学教授、圧縮式冷凍機発明(1876年)のカール・フォン・リンデ(18421934)ミュンヘン工科大学教授、世界で初めて電線を引いたオスカー・フォン・ミラーもいました。

 

量子論と量子力学の創始者たちの多くもミュンヘン大学に関係しています。

まず、黒体輻射に関するヴィーンの変位則のヴィルヘルム・ヴィーン(18641928)(1911年ノーベル物理学賞)は1919年にミュンヘン大学の教授に招聘され、後に学長になっている。1918年に「エネルギー量子の発見」でノーベル物理学賞を受賞したマックス・カール・エルンスト・ルードヴィヒ・プランク(18581947)もミュンヘン大学で学んでいる。

 

さらに、1906年からミュンヘン大学物理学教授であったアルノルド・ゾマンフェルト(18681951)はピーター・デバイ(188419661936年ノーベル化学賞)、パウリ(1945年ノーベル物理学賞)、ハイゼンベルグ(190119761932年ノーベル物理学賞)、ベーテ(190620051967年ノーベル物理学賞)のノーベル賞学者を指揮している。

 

 リービッヒがミュンヘン大学に就任したのはこのようなミュンヘン大学の輝かしい自然科学の歴史の幕開けの時期であったことになる。

 

参考資料 潮本守一『ドイツ近代科学を支えた官僚‐影の文部大臣アルトホーフ』中公新書1993