2005.8.30

化学史の旅‐武山‐(6)

気前がよかったブンゼン

武山高之

 

 ハイデルベルクのハウプトシュトラーセにある大きなブンゼンの立像には、「BUNSEN」という名前が見当たりません。私は198712月にハイデルベルクを訪れています。フランクフルトのヘキスト社を訪問し、週末の空時間に一人でぶらぶらとハイデルベルクを訪れました。その時に偶然、ブンゼン像に出会ったのです。今と同じハウプトシュトラーゼであったか否かは記憶がありませんが、「BUNSEN」というネーム・プレートを見つけ、近くにいた女子学生に、

Fraeulein Photo bitteMit Doktor BUNSEN

と言って、写真を撮ってもらいました。その写真は見つかりません。

 

今回のハイデルベルク訪問で、ホテルやレストランの人たちに、ブンゼン像の場所を聞くと、みな知っており、ハウプトシュトラーセの場所を教えてくれました。ブンゼンは街の人たちに身近な存在と思われます。しかし、行ってみるとネーム・プレートが見つかりません。

そこで、通りを歩いている若い男女づれに尋ねると、若者のほうが現場に連れて行ってくれました。「これだ」という像は我々が見ていたものでした。一緒になってネーム・プレートを探しましたが、やはり見つかりません。地中に埋もれたのかもしれません。それでも、彼は向かい側の古い教室の側面のパネルを指差し、「ほら、ここにキルヒホッフがブンゼンと一緒に分光学で重要な研究をしたと書いてあるでしょう」ということでした。

私たちは、ブンゼンがキルヒホッフの手伝いをしたようにも取れるこの書き方には満足しませんでした。

 

帰国後、以前読んだことがある生松敬三『ハイデルベルク‐ある大学都市の精神史』(1992、講談社文庫)を読み返していて、その謎が解けるようなことが書いてあるのを見つけました。

哲学者・生松敬三はその著書において、19世紀のハイデルベルク大学について、次のように述べています。

 

「その前半は歴史学者トリオのシュロッサー、ゲルヴィーヌス、ホイサーで代表され、後半は科学者トリオのブンゼン、キルヒホフ、ヘルムホルツで代表されると」。

3人の歴史学者については、私には知識がありませんが、3人の科学者の位置づけはこのように非常に高いものであるらしいのです。さらに、

50年代にドイツの産業革命が飛躍的に進行し、70年代に統一ドイツが実現し、富国強兵策が重要視されていた。この時期に科学・技術が不可欠なものとされたことはいうまでもない。この時期において、ハイデルベルクの3人の科学者は、文字通りハイデルベルクの輝ける星であった」

 

また、ハイデルベルクで晩年のブンゼンに親しかった生物学者のユクスキュルの言葉として、ブンゼンとキルヒホッフとの分光分析法の発見について、次のように伝えています。

 

「分光分析法は極めて大きな発見であった。(中略)彼が自然から読み取ったその偉大な回答によって、自然は彼の環境世界をあたかも王侯のごとき地位にまで高めた。その環境世界は任意のハイデルベルクの教授のそれではなく、自然科学の王侯の環境世界である。(中略)こうした印象は、分光分析の発見を友人キルヒホッフ一人の功に帰した、その高貴なやり方によってさらに強められた」

 

ブンゼンは数多くの発明・発見を、王侯君主というにふさわしく誠に気前よく弟子や聴講生に分け与えたと伝えられています。

 

ユスキュルはさらに続けています。

 

「ブンゼンは自分で自分の発明を自ら利用したことは一度もなかった。『研究はすばらしい。だが、稼ぐのはいやらしい』といつもブンゼンは言っていた」と。

 

ハウプトシュトラーセのネーム・プレートもない銅像とキルヒホッフを中心にした顕彰プレートは如何にもブンゼンにふさわしいものではないでしょうか。