ドイツ化学史の旅の参加者は、現在16名程度で、藤牧さんが中心となって本格的な計
画調整に入っています。それに関連して、旅行メモのつもりでまた表題の作文を予定
しています。
 
 
ドイツ化学史 旅のメモ(1           2月27日    伊藤一男
 
 ドイツにおける本格的な化学の始まりー1824年
 
 19世紀初頭、つまり1800年代の初期に化学を牽引していたのは、ドルトン(1766
1844)やヘンリー(17741836)のような偉大な化学者を擁していた英国やゲイリュ
サック(17781850)のフランス、それにベルセリウス(17791848)が活躍してい
たスウェーデンであり、ドイツでは化学という学問はまだ認知されておらず、医学部
の一部に薬学化学があったくらいで、文字通り未だ化学後進国であった。
 
 しかし、このように沈滞していたドイツにも、化学を目指す有能な二人の若者が現
れ、わずか20年足らずでドイツを世界一の化学立国に押し上げるのに貢献した。二
人の名は、ヴェーラー(18001882)とリービッヒ(18031873)であった。彼等が
留学先からドイツに帰国し、アイソマー現象を見つけたことは以前に述べたが、それ
1824年のことであった。この年をもって、ドイツにおける本格的な化学の始まり、
と位置付けることができよう。
 
 1824年といえば、今から約180年も昔のことであるが、当時のドイツは一体どん
な世の中であったのか、興味がもたれる。ちょっとタイムスリップさせてみよう。
 
 1815年、神聖ローマ帝国に代わって、約40の諸国家からなるドイツ連邦が発足し、
フランクフルトに連邦議会が置かれた。しかし、寄り合い所帯のため、各国の思惑は
なかなか一致せず、舞台裏の駆け引きに終始して、いわゆる「会議は踊る、されど進
まず」の状態であった。数ある諸国家のなかでは、オーストリヤ帝国とプロイセン王
国のライバル同士が強大な政治力を誇示し、その他の諸国家との力関係はいびつなほ
どにバランスを欠いていた。その上、折からの改革を求める学生運動や農民運動とそ
れに対する弾圧の悪循環が続き、政情が不安定で、大学も荒廃疲弊の状態であった。
そんななかでの化学の研究教育であった。
 
 フランス留学から帰国してギーセン大学に奉職することになったリービッヒに与え
られたのは、元は孤立した小さな兵舎であり、設備らしいものは何もなく、壁に囲ま
れた殺風景な空間でしかなかった。実験設備といっても、考えてみれば、当時まだ電
灯もない時代であったから、動力源としての電力は勿論なかった。ガラス器具はあっ
た(例:リービッヒ冷却管)が、加熱はどうしたか?アルコールランプかな(ブンゼ
ンの考案によるブンゼンバーナーは、約30年後の製品であるので、当時はまだなかっ
た)。減圧蒸留はどうしたのか?(水流ポンプものちにブンゼンが考案)。感心する
のは、もうすでにドラフトがあったこと。ガラス戸で囲った空間の上部でガスを燃焼
させて空気を吸引していた。
 そんな劣悪な環境ではあったが、ともかくリービッヒの革新的な仕事が始まった。
 
注)当時の日本
 1824年当時、ヨーロッパ化学界では、アイソマー現象の発見や無機物から尿素の合
成など、業績が沸騰している状況であったが、遠く海を隔てた我が国ではまだ鎖国中
であり、太平の夢をむさぼっていた。ペリーの黒船来航は、それからさらに30年も
あとの1853年のことである。
 しかし、そのような鎖国状態のなかにあって、長崎でシーボルトから直接洋学を学
んだ蘭学者宇田川榕庵(17981846)は、ヘンリーの"Elements of Experimental
Chemistry"のオランダ語訳を和訳して、1837年に「舎密開宗」(せいみかいそう、せ
いみ=化学)を出版したことは特筆に値する。この本に啓発されて、化学の道に進ん
だ人がけっこういたという。その影響か、我が国における化学会の設立は意外と早く、
1878年のことであった。ドイツ化学会の設立が1867年であったから、わずか11年遅
かっただけである。これは驚きである!