ドイツ化学史 旅のメモ(2)     3月6日       伊藤一男
 
 ギーセンの街と大学
 
 ギーセンは、昔、地方領主の水城を中心にした集落であったが、1265年、ヘッセン
地方伯の領地となってから軍事上の重要性が増し、1500年代に城壁と居城が築かれた。
その後、ヘッセンダルムシュタット大公国の領主、大公ルートヴィッヒ五世がこの
地に学校をつくり、元は高等学校であったものが1607年に大学に昇格した。
 
 ギーセンという街は、もしここに大学がなかったならば、ほとんど注目されなかっ
たと思われるほど何の変哲もない地方都市である。戦前の話であるが、ドイツ留学中
の山岡望先生が1930年にこのギーセンの駅を訪れたとき、駅員に声をかけると、居合
わせた全員がカメラの前に整列してくれるほどのんびり閑々としていたそうである。
戦後、この街の周辺にも工業団地ができて、たばこやゴム製品、機械類などの工場が
あるが、今でも旅行案内書にもほとんど取り上げられていない。しかし、この街こそ
が我々アイソマーズが目指す化学の聖地である。
 
 かつて、この街の大学の化学教室がにわかに世界中にその高名を轟かせ、「化学の
メッカ」と謳われた時期があった。リービッヒが留学先のパリから帰国して、ここの
大学に奉職することになった1824年(弱冠21歳)から、ミュンヘン大学に転任するま
での28年間であった。
 
 ギーセンの名は、ヘッセンの山々からの水の流れがラーン川に注ぎ入る(giessen
地点にできた街という意味からそのように名付けられたという。リービッヒがギーセ
ン大学で行った独特の教育改革が評判を呼び、青雲の志を抱く若人が、全欧州はもち
ろんのこと、遠く米国やメキシコからも、まるで水が注ぎ込んで来るごとくを以て名
付けられた地名かと疑われるばかりであった。
 
 リービッヒはその後、1852年にミュンヘンに移り、1873年に世を辞したが、化学者
としてまた教育者としてその偉大な足跡を後世に留めるべく、ここギーセンでも彼の
記念像が1890年に建立され、さらに1920年には20年の歳月を費やして彼の化学教室
や実験器具などの原形保存を目的とした博物館が建てられた。
 
 いやしくも化学の歴史に興味をもつ人々なら、敬虔な祈念を抱いてこの聖地を訪れ、
襟を正して遺品を仰いだものであったが、第二次世界大戦末期の194412月、連合軍
の空爆を受けてギーセンの街の7割が破壊された。リービッヒ博物館も例外ではなかっ
た。こんな田舎の小さな街は、空爆するに価しないと思うが、鉄道の結節点でもあっ
たので、爆撃されたのであろうか。1890年に建てられた芸術的にも評価の高いリービッ
ヒ記念像は、このときの空爆には辛うじて耐えたが、惜しむらくは19455月、心無
い米兵によって壊され、今は頭部しか残っていない。
 
 戦後、リービッヒ博物館は修復され、1952年に再び公開され、現在に至っている。
世界の化学博物館の7つの指に入るほどの立派な博物館と位置付けられている。また、
戦後は医学と獣医学の単科大学となっていたギーセン大学も、1960年以来、総合大学
として再建され、偉大なリービッヒの名を冠して、現在はユストゥスリービッヒ大
学となっている。
 
注)リービッヒ博物館の詳しいパンフレットは、先に藤牧さんが下見に行かれたとき
に入手され、現在は小生が預かっている。