ドイツ化学史 旅のメモ(5)   3月29日   伊藤一男
 
 ダルムシュタット
 
 フランクフルトからハイデルベルグへ南下する途中に、かつてのヘッセンダルム
シュタット大公国の首都であったダルムシュタットがある。最も偉大な人物であった
とされる大公エルンストルートヴィッヒが、19世紀末に芸術家を擁護して芸術家村
をつくったときに築かれたマチルデの丘が有名であるが、化学史の観点からも、ここ
は意義深い都市である。リービッヒとケクレの生誕の地であるからだ。また、メルク
社の発祥の地でもある。
 
 リービッヒのみすぼらしい生家は、道狭く日当たりの悪いところにあり、リービッ
ヒ記念館として保存されていたが、ここも194412月の連合軍による空漠で破壊され
た。戦後、立派なリービッヒハウス記念館が建てられ現在に至っている。
 
 ケクレの生家は、父親が高級官僚であったことから、立派な館であった。戦前には
この生家も保存されていたが、戦後どうなったのか定かでない。しかし、ダルムシュ
タット工科大学にある研究所にケクレ記念室があり、ケクレゆかりの資料や記念品が
保管されている。
 
 このたびの「ドイツ化学史の旅」のハードスケジュールでは、上述の二人の生家を
訪れる時間はなく、素通りか横目でちらっと見る程度で我慢せざるを得ない。従って
ここダルムシュタットで生まれ育った偉大な化学者の生い立ちのさわりだけでも記し
ておきたい。
  
 1803年、リービッヒは薬品類を扱う貧しい商店主の次男として生まれ、8歳にして
同市のギムナジウムに通うが、強制されたり規制されることを極度に嫌うと同時に、
批判精神が旺盛な少年であった。宮廷図書館に所蔵される化学の本を読みあさり、学
んだことを自宅の仕事場で実験して再現したりしたが、ときには爆発事故を起こした
こともあった。少年時代の頃からすでに未来の大化学者としての片鱗を窺わせていた。
しかし、いわゆる学業成績は芳しからぬものであり、校長からも手厳しい訓戒を加え
られたこともあった。父は家業の足しにと、ダルムシュタットの南の小さな村にある
薬局に奉公に出したが、数カ月後には、その店はリービッヒを持て余し、我慢できぬ
と送り返した。
 
 16歳になって、リービッヒは父に頼んで新設されたボン大学で勉強する承諾を貰
い、父も懇意にしていたカストナー教授に息子の教育を委ねた。そのころリービッヒ
の批判精神はますます冴えていた。当代随一の化学者カストナー教授もリービッヒ
にかかってはひとたまりもなかった。「カストナー先生の講義は秩序立たず、論理は
通らず、まるで古着屋の店みたいで、古い知識を店一杯に雑然と棚ざらししているに
過ぎない」とリービッヒはこう評した。
 
 カストナー教授のことをよく言わないリービッヒであったが、逆にカストナーは陰
に陽にリービッヒをかばい、化学においてはドイツよりはるかに進んでいたフランス
への留学の世話までした。こうして、リービッヒはパリのゲイリュサックのところ
に留学でき、化学者としてスタートを切ったのである。
 
 一方のケクレは、リービッヒよりも二世代あとの1829年の生まれである。リービッ
ヒが貧しい薬品屋の倅であったのに対し、ケクレは裕福な、周りからは常に羨ましが
られる家庭環境で育った。学校でも将来を嘱望される優等生であり、父は息子の将来
の進路を建築方面と定め、子もまた唯々としてこれに従った。彼は予定通りギーセン
大学の建築科の学生になったが、たまたまリービッヒ先生の化学の講義を聴いたばか
りに、建築を捨てて化学の道に乗り換えてしまった。注)この有名なエピソードは前
にも述べたので、今回は省略する)