ドイツ化学史 旅のメモ(7)    4月7日    伊藤一男
 
 ディンケルスビュール
 
 ディンケルスビュールは化学史とは無縁である。ここでは、化学の「か」の字も忘
れて、ひたすら東山魁夷の世界に浸ろう。
 以下は氏の「馬車よ、ゆっくり走れ」の一節である。
 
    ディンケルスビュールへの道
 途中の景色は牧歌調で、いわゆるロマンチックな田園風景であった。ゆるやかな丘
の上の道ばたに、千年を越えたかと思われる柏樹が大きく枝を広げ、涼しい木陰を作っ
ている。その下に木製のベンチがあったから、車を降りてひと休みした。樅の繁る丘
の連なり、豊かな畑地、下に見える小さな赤屋根の村落。
 
 現実から切り離された夢の世界だと私は言った。(略)
 
 この辺の人々は、私達から見れば、非現実と思える生活、つまり、より人間らしい、
余裕を心に持った暮らしをしているふうに感じられるのである。
 ひっそりとした教会の中に入ると、オルガンの響きが頭上から堂内いっぱいに響き
渡っていたが、人影は無い。誰が弾いているのであろうか。
 
    獅子の泉
 この町は、ローテンブルグよりも更に現実離れのしたメルヘンの町である。古い市
庁舎の広場と呼ばれる、この狭い一区画、楯を持った石の獅子が柱頭についている泉、
広場をめぐる家並みと高いヴェルニッツ門の塔。堂々と威厳を持って聳え立つ聖ゲオ
ルク教会。高い破風屋根の立派な家並み。木組みと、実に美しい装飾として、正面に
あらわしたドイチェスハウス、この家が私達の泊まるホテルである。
 落ち着いた町の家々との、ほんとうに、心が休まるようなたたずまい。
 
    歳月の歩み
 この町こそ、ごくあたりまえの古い町で、町の人が特別に意識して保存した様子も
感じられない。自然に古い家々が残ったかのように見受けられる。
 中世以来、完全に保存されたといってよい城壁と塔、町の中の家々、この私達にとっ
て驚かずにはいられない状態は、この町の人から見れば、驚くに当たらないことかも
しれない。彼等は不便を忍んで古い家に住んでいるといった意識も持っていないし、
これを種に観光客を誘致しようという気持ちもないようだ。我々の年月の尺度と、こ
の町のそれとは違うのではないか。