ドイツ化学史 旅のメモ(8         4月12日   伊藤一男
 
 ミュンヘンーリービッヒの第二のふるさと
 
 リービッヒにとって、ミュンヘンはギーセンに次ぐ第二のふるさとである。1852
にギーセン大学からミュンヘン大学に移り、20年余をそこで過ごし、そこで骨を埋
めた。三つある彼の記念像の一つが、ここミュンヘンにもある。当然のことながら、
墓もここにある。
 
 ところで、リービッヒの晩年の頃のドイツ連邦はまさに激動のさなかにあった。
1870年に普仏戦争が勃発し、プロイセンがフランスに侵攻した。鉄血宰相・ビスマル
クを擁し、圧倒的な政治力と軍事力を誇るプロイセンの前では、フランスも敵ではな
かった。翌1871年、占領下のベルサイユ宮殿でプロイセン国王のヴィルヘルム一世が
即位式を挙げ、ここに統一ドイツ帝国が成立した。敗戦国フランスにとっては、屈辱
以外の何ものもでもなかった。
 
 当時、リービッヒはミュンヘン学士院長の要職にあり、独仏間の平和回復に対する
科学者の任務を次のように論じた。
 
 「我々はフランスの偉大な哲学者、数学者、自然科学者達を師匠と仰ぎ、模範とし
て学んだことを忘れてはなりません。
 私自身も48年前、パリ留学のときフンボルト先生の紹介で当時最高の化学者であ
り物理学者であったゲイ・リュサック教授に近づき、ほんの20歳の若造に過ぎなかっ
たのに個人実験室に入れてもらい、やりかけの研究を続け、先生の御指導で仕事を完
成することができました。私の全生涯の進路は、かくの如くにして決定されたのであ
ります。
(中略)またそれは私一人だけに止まらず、他にも医学者、物理学者あるいは東洋学
者など、その学問の上にフランスの先達の支援と恩恵を受けた多くのドイツ人の名前
を私は知っております。純真にして大志ある者への愛情と私心のない持て成しの精神
は、フランス人の高貴なる美徳であります。
 今や戦渦の苦悩は特にフランスの側に一層重いものがあります。これを慰め、また
と破れる憂いのない兄弟愛をもって、ドイツとフランスの両国を結び合わせるための
協力、これに向かってまっ先に手を差し伸べるのが我々の努めではないでしょうか!」
 
 私がリービッヒに対しますます敬慕の念を強くする理由のひとつは、この演説にあ
る。