ドイツ化学史 旅のメモ(9)      4月17日    伊藤一男
 
 ミュンヘンーペッテンコーフェル教授
 
 ミュンヘンのマキシミリアン広場は大きな樹木が茂った静かな公園で、細長い形を
している。その中心部にリービッヒとペッテンコーフェル(Max Josef von
Pettenkofer)の記念像が路を挟んで仲良く向かい合っている。
 
 ペッテンコーフェル(1818-1901)は、ミュンヘン大学の生化学教授の要職にあっ
て、衛生学に化学的方法を導入した最初のひとりで、環境衛生の改善が死亡率を低下
させるという立場から、ミュンヘンの上下水道工事を指導し、腸チフスをなくしたこ
とでも有名である。
 
 ペッテンコーフェルはもともとバイエルンの人であったが、若い頃薬学や医学を学
んだのち、ギーセン大学でリービッヒについて化学の研究にも従事した。ミュンヘン
大学に奉職して間もなく、彼はギーセン大学のリービッヒをミュンヘンに迎えること
を国王のマキシミリアン二世に進言した。ミュンヘンを芸術のみならず学術の都と標
榜して憚らなかった国王もまた、いかなる手段を用いてもリービッヒをミュンヘンに
招聘すべきことを命じた。ペッテンコーフェルの熱意と並々ならぬ尽力が効を奏し、
誰の目にも不可能と思われた巨匠のミュンヘンへの移籍が実現した。
 
 ところで、当時、結核やコレラなどの感染症の発生は細菌によるものである、とコッ
ホ(1843-1910)は病原細菌説を発表したが、ペッテンコーフェルはこれに真っ向か
ら反対し、細菌ではなく地下水に原因があるとして対立、コッホの前で自らコレラ菌
を飲んだという逸話もある。師匠のリービッヒと性格的に共通するところもあったの
であろう。とにかく熱血漢であった。老齢になって働けなくなった者は、この世に生
きているべきではないという持論を自ら実践し、83歳でピストル自殺を遂げた。
 
 ついでにこぼれ話。
 文豪森鴎外は陸軍の衛生制度や衛生学を学ぶために、1884年(明治17年)にドイ
ツ留学を命ぜられ、ライプツィッヒ、ドレスデンを経て1886年にミュンヘン大学のペッ
テンコーフェル教授の指導を受けた。わずか1年間であったが。翌年にはベルリンへ
移り、面白いことに、ペッテンコーフェルの宿敵であるコッホにも学んだ。
 文京区千駄木にある鴎外図書館には、当時の写真やペッテンコーフェル自筆の献辞
などが残っている。
 
 最後に、森川正信君が元気で居てくれたら、彼は嬉々としてミュンヘンに我々を出
迎え、旗を振りながら得意げに名所を案内してくれるであろうに、と思うと残念でな
りません。合掌。(おわり)