我孫子ゆかりの文化人(2)     4月8日  伊藤一男

「すべては嘉納治五郎から始まった」

 民芸運動の先駆者であり、雑誌『白樺』の同人でもある柳宗悦が中心となり、友人の志賀直哉や武者小路実篤等と共に我孫子の地で白樺派の 全盛時代を築いたが、そもそもそのきっかけを作ったのは柔道家
教育者の嘉納治五郎(1860~1938であった。

 嘉納は明治43年(1910年に初めて我孫子の地を踏んだ。高台から湖畔を見下ろすと、ひたひたときらめくさざ波とえも言われぬ静けさを感じ、ひなびた自然の趣を漂わせる手賀沼の姿に、彼はロンドンのテムズ河を重ね合わせたのかも知れない。翌年、湖畔の高台に 別荘を建てた。当時としては珍しく、いわば別荘の嚆矢であった。彼は甥にあたる柳宗悦にも我孫子を紹介し、それが縁で柳も嘉納の隣りに移住して来たのである。もし、嘉納が我孫子に住まなかったら、柳宗悦も我孫子に来なかったし、白樺派も民芸運動も我孫子ではなく、どこかよその地で発展していたであろうと言われている。

 若い頃(学習院奉職時代)欧州を視察した嘉納は、折にふれ欧米の伝統的な私学中心の教育制度を研究するにつけ、我が国の教育のあり方に思いを馳せること多く、ひそかに理想とする小~大一貫の学園構想をもっていた。そこで彼は我孫子に2万坪の用地を取得し、学園設立の計画を立てたが、当時の文部省の許可が得られず、已むなく方向転換して 「嘉納後楽農園」とした(農園は彼の死後宅地として処分され、現在はここに多くの住宅が建てられている)。彼の学園構想は、結局、 神戸の灘中学を設立することによって具現化された。

 彼は明治42年(1909年)に日本代表の国際オリンピック 委員となり、日本にオリンピックを誘致する運動にも尽力した。昭和 11年、IOCベルリン総会に出席し、オリンピックの東京招致を自ら英語を駆使して熱心に訴えた。熱意と情熱、誠実さが出席委員の心を 動かし、ヘルシンキを抑えて昭和15年の東京開催が決定された。 しかし、昭和13年のIOCカイロ総会の帰途、重責を果たして帰路についた「氷川丸」の船上で、肺炎のため惜しくも逝去した。そ の2ヶ月後、せっかく彼が招致に成功した東京オリンピックを、日本は戦争のため開催を断念した。東京オリンピックが幻に終わったことは、 彼は無論知る由もなかった。

 写真はかつての嘉納治五郎の別荘地である。広さは2000坪近く もある。最近、市が遺跡保存のために買い上げ、近く一般市民にも開放 するとのことである。