我孫子ゆかりの文化人(3)    4月16日     伊藤一男

「柳宗悦の我孫子讃歌」

 柳宗悦(やなぎむねよし 1889~1961)は民芸運動を起こした思想家であり、美術評論家でもあった。学習院を経て東大で宗教哲学を学んだが、学習院在学中に同人雑誌グループの白樺派に加わり、生活に即した民芸品に注目して「用の美」を唱えた。

 大正3年(1914年)、声楽家の兼子と大恋愛の末結婚し、叔父の嘉納治五郎の勧めもあって、我孫子に移り住み、約7年間をこの地で過ごした。彼は我孫子を、特に手賀沼の静かな風景をこよなく愛した。 『白樺』大正十年四月号のなかで次のように振り返っている。

 「七年近くもいた此の我孫子に対して、今更に愛着を感じている。
・・・思い出してもここへ来て自然とどれだけ親しい間柄になったかを感謝せずにはいられない。静かな音もない沼の景色は自分の心をはぐくんでくれた。沼の上に永く降り続く雨も、時としては自然の美しい、なくてはならぬ諧調に思えた。月の沼も又となく美しい。私は床に就く時間を幾度か延ばした。・・・夕方日が沈みかけて、空が紅の色に染まる頃、沼越しに富士山を幾度見たか分からない。・・・ここは地上の美しい場所の一つだと自分はよくおもった。・・・然し自然のみではない。ここに来てから友達とも離れられない間柄になった。一時は吾々のコロニーになった。自分が来てから一年の後、志賀がここに移り、また 一年して武者、リーチが加わり、それから木村、清宮、その他の画かきや創作家が度々ここへ住んだ。吾々は殆ど顔を合わせない時がなかった。吾々はよく一緒に食事をとった。・・・

 柳宗悦、志賀直哉、武者小路実篤らの白樺派の面々に陶芸家のバーナード
リーチも加わり、ほとんど毎日のごとく民芸、文芸、陶芸など、芸術論を熱く語り合っていた様子を彷彿とさせる。柳にとって我孫 子時代は、年齢的にも二十代から三十代、最も昂揚した時期であった。 ちょうどその頃、たまたま朝鮮の李朝陶器を見てその素晴らしさに魅せられたのが民芸運動の始まりであった。民芸品を求めて、彼はたびたび朝鮮を訪れた。その意味では、彼の民芸運動も我孫子から始まり、やがて大きな潮流として全国に広がったといえる。

 柳宗悦の民芸運動中にあって特筆すべきものは、日韓併合(1910年)以降の偏狭なナショナリズムに安易に同調することなく、むしろ日本の植民地政策を批判しながら朝鮮をこよなく愛したことであった。当時、日本のほとんどの知識人が沈黙していた中にあって、 彼は読売新聞に「朝鮮人を想う」という一文を投稿し、日本人でありながら、支配される側の朝鮮の人々の立場を想う心情に溢れ、反抗する朝鮮の民衆より一層愚かなのは圧迫する日本人のほうではないかと論じ、日本人の良心の覚醒を促そうとした。こうした柳の考えは当時の日本にあってはきわめて異例なものであった。植民地支配を疑う者は非国民であり、朝鮮の独立に同情する者は売国奴とされた時代であったからである。当然、官憲から睨まれ、柳の自宅周辺はいつも私服の刑亊から監視 されていたという。

 のちに柳は、幾多の苦難を乗り越えて、1924年、京城(ソウ ル)に「朝鮮民族美術館」を、また1936年には東京駒場に「日本民芸館」を設立した。これらの事業を物心両面で支えたのは、声楽家の妻
兼子であった。従って次回は「民芸運動を支えた声楽家柳兼子」

 写真は柳宗悦の住居跡へと通じる天神坂石段。右側は嘉納治五郎の別 荘跡。一帯の斜面林を形成して独特の風情を残している。