我孫子ゆかりの文化人(4)    4月22日    伊藤一男

「夫の民芸運動を支えた声楽家
柳兼子」

 柳兼子(1892~1984年)は東京の下町育ちながら東京音楽学校 で声楽を学び、文字通り日本声楽界の草分け的な存在となり、「明治
大正昭和の生きた声楽家」と言われた。初舞台が18歳、公式演 奏最後のリサイタルが85歳とのことであるから、演奏活動は実に70年近くにも及び、まさしく「我が国声楽界の至宝」に相応しい女性で あった。彼女は演奏活動の傍ら、夫宗悦の精力的で多様な民芸運動を 物心両面で支え続け、「朝鮮民族美術館」設立に奔走する夫に共鳴して自らもリサイタルを開催し、多くの人々と厚くて深い親交を築いた。そのうえ、3人の息子を育て上げた良妻賢母でもあった。

 柳兼子のこのような波乱に満ちた多様な活動も、我孫子から始まった といえよう。
 兼子は明治43年(1910年)、雑誌『白樺』創刊の数日前 に柳宗悦に会い、長い交際期間を経て大正3年(1914年)に結婚し、その7ヶ月後に我孫子に転居して来た。その年の暮れには、帝国劇場で山田耕筰指揮のもと80名のオーケストラをバックに歌劇『カ ルメン』のなかの「ハバネラ(恋は野の鳥)」を独唱した。その頃長男を身ごもっていた身体でもあり、自分でも決して満足のいく内容ではなかったが、彼女はそれをバネにさらに研鑽を重ねた。大正4年に長男を出産、さらに2年後に次男を出産した。ちょうどその頃、実家の鉄工場の倒産もあり、家計も大変だというのに白樺同人が「公共白樺美術館」 を設立するというので、その資金集めのために「柳兼子独唱会」を各地で開催するなど、まさに大車輪の活躍であった。

 しかし、実生活ではなかなか苦労も絶えなかった。とにかく、大正デ モクラシーの真っ直中にあった白樺同人の男性たちは、勝手気ままな亭主関白が多く、柳宗悦も例外ではなかった。仏教思想にも造詣が深く、外では朝鮮民族への愛と同情を説く夫
宗悦もうちの中では専制君主そのものであったという。兼子に対しても、一個の自立した芸術家である前に、妻であり、母であることを要求した。それに加えて、連日、自宅を訪れる白樺派の友人たちにも酒肴を振る舞わなければならなかった。

 結婚前に掲げた「理想の愛」も、現実にはままならぬことが多く、夫婦二人の間にしばしば乖離を生じた。とりわけ、夫
宗悦のなかに隠された封建的な男性気質と、自立した声楽家である妻兼子の勝ち気で激 しい性格がぶつかり合った。兼子は少女時代から、女性の身につけるべき教養と生活技術を母から厳しく仕込まれ、良妻賢母へのこだわりが強い一方で、夫には盲従せず、主張すべきは主張した。しかし、宗悦と掲げた「理想の愛」を生涯手放すことなく、その精神を具現化していったであるが、その生きる強い姿勢が我孫子時代にも端的に現れている。

ついでにこぼれ話:
 我孫子には白樺派文人に関する郷土史研究家がわんさといる。白樺文 学館という小さな博物館もあって、そこでよく講演会も開かれる。最近 ある郷土史研究家による「柳兼子カレー考証」という講演があり、大正の初期に我孫子の手賀沼湖畔に住んでいた白樺派文人たちが堪能したカレーを再現する催しがあった。柳兼子が自宅を訪れた面々に振る舞った カレーの味をよみがえらせるために、当時のレシピを研究し、試食をす る会であり、もう何回もやっているそうだ。そもそもそのカレーという のは、柳邸の敷地内に窯をもっていた陶芸家のバーナード
リーチが「カレーライスに味噌を入れたらうまいだろう」と言い出したのが発端 であり、兼子が試しに粒味噌を入れたところ、意外にも美味しいカレー ができたという。

 写真は、柳夫妻が住んでいた敷地に今も残っている樹齢400年の椎 の古木3本で、宗悦はこの敷地を「三樹荘」と名付けた。当時は屋敷の 一角に兼子の声楽レッスンのための離れがあり、また同じ屋敷内にリー チの工房と窯もあった。(次回は「我孫子嫌い?の志賀直哉」)