我孫子ゆかりの文化人(5)     4月29日    伊藤一男

「我孫子嫌い?の志賀直哉」

 志賀直哉(1883~1971年)が柳宗悦に誘われて群馬県の赤城から我孫子に越して来たのは、大正4年(1915年)、32歳のときであった。転居癖のある彼の転居の動機は、いつもいい加減で、我孫子の場合も例外ではなかった。

 「柳が来た時、二人で湖水に舟を出して話しているとき、我孫子にいい家があるから買わないか、と言はれ、すぐその気になって、康子(注、妻)にも相談せずに決めて了った。」
 「住んでみると、あまり淋しいので厭になって来た。つまり退屈するのだ。」
 「我孫子時代の生活は、色々面白いこともあったが、随分退屈をした。かういふ刺激のない田舎生活といふものは若い夫婦にとっては、それだけで悲劇の起る可能性のある危険なものだと思ふ。」(以上は『稲村雑談』)

 我孫子に越して来た当初は、志賀直哉夫婦は失意の中にあった。以前からの父親との不和を引きずったままであり、我孫子に来る前の年の暮 れに武者小路実篤の従妹
康子(さだこ)と結婚したが、康子は再婚であり、子供もいたことから父親がこの結婚にも反対し、両者の不和にさらなる追い打ちをかけた。加えて、我孫子で生まれたばかりの長女を病 気で失ったことも、この夫婦にとっての我孫子の印象を悪くしたのでは なかろうか。

 しかし、志賀が言う「淋しい」とか「退屈」とかは、彼の本心かどうか疑わしい。なぜなら、志賀直哉が我孫子に来て間もなく、手賀沼を見下ろせ、遠く富士を眺められる松林に囲まれた土地を千四五百坪ほど買っていて、そこに武者小路実篤を呼び寄せ、先に来ていた柳宗悦や バーナード
リーチ等と毎日のように芸術論など熱い議論を交えていたから、決して淋しいとか退屈ではなかったろうにと思われる。武者小路 が去ったあとも、瀧井孝作や中勘助が志賀を慕って我孫子に来て盛んに 交流しているのだ。

 しばらくして次女が誕生し、父との感動的な和解も成って、筆を断っ ていた志賀にもようやく創作意欲が湧き始め、代表作である『和解』や 観察描写に優れた『城崎にて』などを発表し、次いで『小僧の神様』、そして唯一の長編小説ともいうべき『暗夜行路』の前編を連載し、さらに後編の一部に取りかかった。このように見ると、志賀直哉の代表作はほとんどが我孫子時代に書かれたものであり、最も充実した時期であったといえる。裏返して言えば、我孫子時代以降はあまり見るべき作品がない、と言えば言い過ぎだろうか。

 かくして志賀直哉は、我孫子は嫌だ、好かぬと言っていたのに、結 局、7年半も滞在した。生涯に23回も転居した志賀にとって、我孫子 の7年半は記録的に長いものであった。

 ついでに、彼の手賀沼風景の描写文(『読売新聞』の「雪の日」)を引用する。さすがに上手いと思う。

 「沼の方は一帯薄墨ではいたやうになって、何時も見えて居る対岸が全く見えない。沿べりの枯葭が穂に雪を頂いて、其薄墨の背景からクッキリと浮き出して居る。其葭の間に、雪の積った細長い沼舟が乗捨ててある。本統に絵のやうだ。東洋の勝れた墨絵が実に此印象を確に掴み、 それを強い効果で現して居る事を今更に感嘆した。所謂印象だけではなく、それから起って来る吾々の精神の勇躍をまで掴んでいる点に驚く。 そして自分は目前の此景色に対し、彼等の表現外に出て見る事はどうしても出来ない気がした。」

 写真は我孫子時代の志賀直哉の旧書斎である。ここは狭いながら、市の記念公園となっている。彼の遺言により、記念碑などは一切ない。
(次回は「志賀直哉の知られざる人間的側面」)