20017修正

西 村 三千男 記

 

アイソマーズ・ドイツ化学史の旅パート2の参考資料

リッテルとワグネル

 

日本の幕末から明治初期にかけての混乱期には、いわゆる雇われ外国人がこの国の理化

学教育に大きく貢献した。そのうちゲッチンゲンにゆかりの首記2人のドイツ人の周辺に

ついてまとめた。

参考出典:・「日本の化学100年史」(1978、日本化学会編、東京化学同人刊)

    ・「日本の基礎化学の歴史的背景」

(昭和59年、京大理学部・化学・日本の基礎化学研究会編、非売品)

・芝哲夫(阪大名誉教授)の各種講演録

 

 リッテル(Hermann Ritter,182874)

金沢・加賀藩の招きで来日したが、直ぐに解雇され、大阪開成所へオランダ人理化学教

師ハラタマ(Gratama,K.W.)の後任として迎えられた。リッテルはゲッチンゲン大でウェー

ラー門下の理学博士。米国、ロシアで化学工業キャリアーを積み来日した(1870)。

英国人ロスコー(Roscoe,H.E.)の化学書を教科書として用い、英語で講義を行った。講義

は化学、理学、化学実験、物理実験を含んで立派なものであった。

その講義録は「官版・理化日誌」全8巻、24冊として刊行され(1872)広く読まれ

た。編集したのは一番弟子の市川(村岡)盛三郎(1852〜82)。後に改訂されて、

「化学日記」6冊、「物理日記」6冊として文部省から数次にわたり出版された。明治初

期の優れた理化学教科書とされている(国会図書館に蔵書されている)。

村橋俊一先生(阪大名誉教授)の曾祖父村橋次郎(1848〜1912)はハラタマに続

きリッテルの指導をうけた。「味の素」の元祖池田菊苗は村橋次郎に化学の入門を教わっ

た。

明治新政府の試行錯誤的な理化学教育の政策変更で大阪開成所が変貌し、リッテルは大阪

を去り(1873)、東京開成学校の鉱山学教授となるも、天然痘で病没(1974)。

横浜外人共同墓地に眠る。

 

 ワグネル(Gottfried Wagner, 183192)

 ゲッチンゲン大学でガウス等に師事し、21歳の若さで数学物理学の理学博士となる。

マルチなタレントで野心家、パリ、スイスを経て長崎へ来日した(1868)。佐賀藩で

有田焼の釉薬研究、大学・南校(東大)のドイツ語教師(1870)、大学・東校(東大

医学部)で数学、物理学、博物学、化学の教師(1872)、ウィーン万国博の出展顧問

(1873)、日本人の欧州留学の斡旋仲介等を経て、当時としては破格の高給で京都府

へ招聘された(1878)。

京都では陶磁器、七宝、ガラス等の製造技術開発に注力、初代島津源蔵に旋盤を手ほどき

したと伝えられる。

その後、再度東大理学部教師、東京職人学校(東工大)教師などを歴任後、1892年に

東京の自宅で没す。

京都岡崎と東工大に顕彰碑がある。

 

 産業立国に理化学を重視

富国と産業振興のためには、何よりも欧米流の理化学を教育することが大切との認識が

あった。

 

 京都と大阪と東京

明治維新の際に、(行政の中心をどこに置くかと同様に)理化学教育の中心を京都、大

阪、東京のどこにするかについて試行錯誤があった。朝廷のあった京都、江戸幕府のあった

東京を避けて大阪遷都が考えられた時期もあった。「適塾」のあった大阪に大阪開成所(後

の舎密局)を置いて日本全国からの向学の若者たちに理化学を教育した。後に東京への中央

集権に方針が再転換される。大阪に蓄積された教育資産は、京都の第三高等学校前身と京大

前身へと引き継がれた。

 

 蘭学からドイツ理化学へ乗り換え

 鎖国時代は、長崎出島を窓口としてオランダ経由の科学技術の伝来が営々と続いた。日本

全国の向学の若者たちは主としてオランダ語を学んでいた。オランダ語の辞書は巷で求める

ことが出来た。

やがてオランダが西欧でメジャーなプレーヤーではないと気付いた。(誰が?何時?)は

不詳であるが、ある時点でドイツ理化学に乗り換えたのは大英断であった。当時、ドイツ語

を話せる人は極く少なかった。ドイツ語の辞書は無かった。どうしたかと言えば、雇われ外

人教師としてドイツ語/オランダ語/英語の出来る人を選んだ。またはドイツ語/オランダ

語の外人通訳を多数採用したのである。

 芝哲夫先生の講演は2000年の日蘭修好400年記念講演であるから、オランダに礼を

失する様な説明は避けられている。

 

  (おわり)