突然の入院

武山 文子

 

 

胸の痛み

 

 駅の階段を上がっていたとき、誰かに背中を押されているような、いままで感じたこともない鈍痛に襲われた。胸にも不安感が過ぎった。

 なにかなと思いながらやり過ごしていると五分くらいで治まった。その後、この症状がなんどか繰り返して起きたが、病院に行くほどではないと思っていた。

 後から考えると、前兆として他にも思い当たることがあった。一週間ほど前の写生会で重い荷物を背負い、山道を歩いていると、胸苦しさを感じた。民宿でお風呂に入り、夕食をとった後、急に気分が悪くなり、食べ物を戻してしまった。しかし、あくる日にはよくなっていた。

 

最初に、ホームドクターの所に駆け込んでいれば、後の大事に至らなかったのかもしれない。

 それは、二〇〇六年十一月十一日のことだった。昼と夜に外出して、帰ったその夜、みぞおちの辺りが痛くなり眠られなくなった。寝返りを打ったり、起き上がってみたりしたが、痛みは止まらない。ゲップが出たら少し楽になったように思えた。それで、この症状なら急性胃炎に違いないと自分で診断を下した。

 台所に降りて行って、まず牛乳を噛むように飲んだ。胃腸薬を飲んでみたが、効き目は現れなかった。隣に寝ている夫を起こすのは、もう少し先にしようと、眠られないまま我慢した。救急車のことも頭を過ぎったが、決心はつかなかった。

 東の空が少し明るくなり、夜明けを迎えた。長い夜に思えた。朝七時ごろになると、胸の痛みはおさまってきたが気分が悪くて起き上がれない。十二日の日曜日は、銀座に月末にある集会の会場の下見に行くはずだったが、とても行く気になれなかった。

 断りの電話を入れて、夫だけが行くことになった。夫が夕方帰宅するまで、水やお茶を飲んで寝ていた。下痢も嘔吐もないので、休日診療の病院に行くこともないかと、また自己判断をしてしまった。

 この遅れが、命を縮めていることも知らずに。また夜を迎えてしまった。痛みは起きないので、まずまず眠れた。

 朝起きてみると、なんだか爽やかである。あの痛みもどこか遠くに行ってしまった。

 

 

救急車

 

「今日は夜の英会話教室にも行けそうだよ」

と、軽く家事もこなしていたが、午後三時ごろのことだった。なにか胸の辺りがキューンとするのである。

「やっぱり、お医者さんに行ってくる」

「うん、直ぐ行ったほうがいいよ」

 電動自転車に乗って、近所のクリニックに急いだ。症状を話すと、先生の顔色が変わった。

「心筋梗塞の疑いがあります。心電図を撮ってみましょう」

「もう梗塞が起きています。すぐ救急車で」

 C大付属病院のICUに連絡してくださり、夫も呼ばれた。脈を取りながら、先生も同乗してくださった。

「除細動の機械は自動ですか、手動ですか」

 先生と救急隊員のやり取りが聞こえる。意識ははっきりしているし、胸の痛みもないので、自分には危機感はない。後で聞けば、C大に着くまでに心臓が止まるかもしれないと先生は思っていたと言うことだった。

 救急車は、義母の緑内障や母の介護のとき、なんどか同乗したが、自分が患者になってみると、ガタガタと振動し、乗り心地の良いものではなかった。四十分ぐらいで着いた。

 

手術室

 

 月曜日の四時ごろだったが、医療チームは揃って待っていてくださった。ストレチャーから手術台に移された。既往症や飲んでいる薬・体重・薬アレルギーなどについて聞かれ、指輪も渡した。着ていた服は下着まで剥ぎ取られると、もう観念するしかなかった。俎板の上の鯉である。膝に湿布が貼ってあった。

「痛いんだ」

と、同情の声

「コレステロールも高かったから」

との声も聞こえた。

「消毒シートを被せますので、手を上に出したり、動いたりしないように」

 手術中のリスクについて説明があった。

「冠動脈に詰まった血の塊りが脳に飛んで、脳梗塞を起こすかもしれません。最終的には心臓蘇生術までいくかもしれません。」

 うん、と頷くだけだった。

〈なにがあっても、文句は言わない〉の契約書は家族が既にハンコを押していることだろう、手首の血管から造影剤が入れられ、心臓の梗塞場所を探しているようである。

「冠動脈の大事なところが詰まっていて、流れていません」

と、たくさんいる医師の一人が教えてくれる。施術する医師は、テキパキと指示している。

 手術台を取り囲む影のようなマスクの一団。後ろのほうには、教授が控えているようで、指示の声が聞こえる。私の眼には広角レンズがついてないので、それ以上は見えなかった。

 胸の辺りに円盤のような計器が上下、左右に動き、前の大型スクリーンに私の心臓が拡大されて映っている。水道管のようでもある。計器がたくさんあり、光ったり、音を出したり、魔物のように見えた。刻々の私の命の営みが、数字になって知らされている。なにかが致命的な値を示したら、どんな警戒音が鳴るのだろう。

 医師から質問。

「薬ですが、副作用が二分の一で、二週間しか処方できない新薬と、一か月処方できる普通の薬と、どちらにしますか」

と、早い決断を迫られる。

「副作用はなんですか」

 思わず、質問する。

「肝臓」

 副作用は少ないほうがいいし、二週間なら取りにも行けると、そちらを選んだ。俎板の鯉は冷静である

「ここにサインして」

 胸元に紙とペンが差し出された。

「印鑑もありますが」

と、余計な一言。

 体重・身長・血圧・既往症・家族の病歴・入院暦・飲んでいる薬・喫煙の有無など、体の過去が暴かれる。

 右手の血管と右足の腿の付け根の血管から、バルーンカテーテルを挿入し、狭窄部分を広げ、流れを良くし、ステントという金属の籠のようなものを入れて、血管の通り道を作る手術が行われるようである。部分麻酔なので、手術の過程は全部分かる。

「チクリとします。圧迫感があります」

と、その都度知らせてくれるので心構えができるが、不安感も。

 もうチームを信頼してお任せするしかない。

 パッと電気が付くと、医師の手が動き、「記録」と言う声で電気が消えて、手術の過程が録画される。この繰り返しだ。意識はあり、痛みもないので、平静である。

「大丈夫ですか、胸苦しくないですか」

と、頻繁に問いかけしてくれる。もう随分時間が経過しているようだ。ステントの大きさなどを検討している声が聞こえる。

 難しいのだろうか。不安が過ぎる。

 小柄な医師が、耳元で、

「詰まっていたところが、先まで流れるようになりました」

と伝えてくれた。

 酸素マスクの下から、

「ありがとうございます」

 喉が渇き、声も掠れていたが、心からの感謝の気持ちだった。

 かなり症状は重かったようだ。

「終りました」

の声で、シーツごと数人で持ち上げられ、ストレチャーに移された。ズッシリと自分の体重を感じた。

 

ICUのベッド

 

 無菌に管理されたICUの病室に運ばれるとき、夫と友人の整形外科医が「がんばったね」と声かけしてくれた。

 ICUでは、若い男性医師と女性研修医が丁寧な応対で見守ってくれた。

「いま、夜の十時です」

 そんなに時間が流れてしまったのか。手首と腿は、きつく縛られている。管は、体のあらゆるところに、張り巡らされて、術後の経過観察の重要な役割を担っているようである。

 胸に厚い板を挟んでレントゲン撮影もした。体はばらばらになりそうなほど痛く、ズキンズキンと鼓動する。

「僕が主治医になります」と言われた傍らの医師に、鼓動を訴えると、

「それは心臓の音が聞こえているのです」

 答えに素直に納得したが、入院生活の中で一番辛かったのは、ICUであった。目を瞑ったが眠られない、睡眠薬を飲んでも眠られなかった。突然、聞き慣れた声が飛び込んできた。

「あ、スパゲッティー症候群だ」

 心臓の動きをモニターするスワンガンツ・カテーテルや、心臓の機能を補助するお助けマンのバルーンポンピング・カテーテルなど、体にチューブやコードが十本以上もあり、絡まりそうになっている状態を呼ぶらしい。夫は、なにか起きたときのために、待合室で仮眠して夜を過ごすことになった。

 幸いなにごともなく朝を迎えた。重症だったようで、家族を呼んでくださいということになっていた。昼前に、岡山から、長女が来てくれた。やはり嬉しかった。

「病院に行くのが遅くなって」

と、いろいろ喋ったそうだが、あまり覚えていない。

 

個室に移る

 

 幸いに緊急事態は起こらず、午後には十階の循環器内科の個室に移された。たくさんあったチューブやコードも、半分以上は外された。名古屋から妹が、静岡から長男が、市川の次男夫婦などが来てくれた。ビーズで作った亀の長寿のお守りをもらった。家族はなんと言っても大きなお守りだ。東京に住む兄弟姉妹も次々と駆けつけてくれて、心強く思った。

 病棟長と手術チームの医師が顔を出してくれた。主治医は、シャープな感じの若いS先生。坊ちゃんタイプの研修医のO先生。丸顔の看護師のKさんも優しそうな方だ。いずれもマスクの下の素顔は定かでないが、目元判断である。

 冠動脈の大事な部分が詰まっていて、心筋の壊死も部分的には残るが、合併症が起こらなければ、かなり回復するのではとの説明を受けた。

「いつかは富士山にも登ることはできますよ」

の言葉に明かりが射した。

 夜は、計器の音や近くの救急病院に来る救急車のサイレンの音で眠られない。ワゴン式の寝たまま計ることができる心電図と心エコー、採血・血圧測定などが頻繁に行われた。体脂肪も多いと告げられた。

 翌朝からは食事も出た。症状が良くなるに従い、少しずつ管も取り外されて身軽になった。

 エコーを見ながら、

「心臓はよく動いています。心臓の周りに少し水が溜まっていましたが、増えてはいません。増えると心臓破裂の危険性があります。大丈夫でしょう」

 私の体を吹き抜けた大嵐は一応収まったようだ。

 

六人部屋の人間模様

 

 幸い、溜まっていた水も少なくなったとのこと。三日間個室にいて、十一月十七日の午後、六人部屋に移った。上半分がネットになっているベージュ色のカーテンで仕切られた二畳足らずの空間。新しい患者は、看護がしやすい入り口に近いベッドがあてがわれる。海の底に沈んだ感じで暗い。気持ちも落ち込む。トイレはすぐ前だが、まだポータブルトイレを使用する。

 カーテンは閉めてあり、病友たちの顔は見えない。突然、親分肌の低音が聞こえた。

「この病院の飯まずいよ。こんなべちゃめし食えるかよ」

 これは大変な部屋に配属されたものだと思った。他にも、どんな強面がいるのだろうか。

 この六十代の女性は、米どころ秋田出身とか。腎臓が一つしか機能していなくて、心臓も悪いらしい。運送会社の奥さんとして、夫を助け、三人の子どもを育て、日本舞踊の先生もして頑張ってきたとのこと。夫の浮気に苦しんだが、数年前に亡くなられたとか。長男の嫁はモンゴルから迎え、美人で日本人より情が深いのだという。退院のとき、お目にかかったが、その通りだと思った。

 主治医を「いらっしゃいませ」と迎え、荒い言葉で言いたい放題だが、実は淋しがり屋で人情に厚い人だと私は思った。

 

 隣のベッドから聞こえる地元の話に耳を傾けていると、八十一歳まで生きてきた道・息子自慢・孫自慢、自宅いるご主人の病歴から、介護の状況・お嫁さんにとても感謝しているが、その間に、ちょっと出る愚痴。話し出したら止まらない様子。庄屋の娘さんで、裕福に育ったらしい。教科書は『さくらさくら』で、夏はセーラー服での通学。昭和二十一年のお嫁入りは、五つ紋の振袖で、と、年代も狂わず、しっかりしている。私も引き込まれ、当時の生活習慣や味噌・醤油作りの質問などをした。昭和の時代の語り部として興味深かった。心臓に不整脈があり、入退院を繰り返しておられるそうである。

 

 年のころ五十歳、脊髄損傷による下半身麻痺で車椅子生活である。膠原病で、二十歳のころから病院通いで、なんどかの手術を経験している。心臓も、もう内科的治療が限界で、外科手術を勧められていることなどを、ぼそぼそと話してくれた。この部屋では、一番重たいものを抱えている方のようである。病院や医師、医療が信じられなくなって、反抗的で、屈折した気持ちになっているようだ。無理もないと思った。

「こんな体になって、もういっそのこと、弛緩剤を注射して殺してもらいたいよ」

と激しい口調にも。好い加減な同情や、慰めの言葉はかけられない。顔は艶艶していて、白く綺麗な手には金の指輪が光っていた。優しいご主人が来てくれると、嬉しそうである。

 

 血色が良く少し太めで、ピンクのパジャマも可愛い気配り抜群の彼女は、窓側の部屋に少し後から入ってきた。ステント治療はしたようだが、症状が軽かったようで、最初から、トイレにも行けるし、食事も食堂でできる。水を売店に買いに行ったり、隣のお祖母さんの毛布の乱れも直してあげたり、細やかにお世話をされている。胸が痛くなって、救急車で別の病院に運ばれたが、循環器内科がなく、ここに回された。その日は急患で混み合っていて、救急車の中で順番待ちをしていたそうだ。付き添った優しいご主人が、心配のあまり、冷や汗を出して座り込んだので、手当てをしてもらったことなど話してくださった。親戚に気を配り過ぎて、ストレスが溜まったことなども。笑顔を絶やさない。ナースになればいいような性格だと思う。

 

 九十歳のMさんは、小柄で色白。アップにした襟足の美しさや、粋な雰囲気は、もしや花柳界の方かもしれないと思ったほどだ。実は有名なテーラーの奥さんとして、商家を支えてきたとか。キャバレー通いの旦那さんの話もたっぷりと聞かせてもらった。少し認知症の兆しがあるのか、点滴を取ったり、ピンクの病衣を着たウサギがピョンンピョンと跳ねるように窓際に行く。眼下に広がる街の信号が赤になっているので、交通事故が起きていると、いつまでも気にしていた。昼間は粋で可愛いお婆さんが、夜になると、妄想に取り付かれて、まるでジキルとハイドのように変貌しるのには驚いた。

「そこにいるのは、誰だ。警察に突き出すぞ」

と、声もまるで男声に。病院の方が寝ずの番をすることになったが、私たち病人は不眠の日が続いた。いずれ誰もが行く道かと思うと身につまされた。

 

  七十歳の元キャリアウーマンは、清潔感があり、しゃきっとしている。不整脈に悩まされ通院していたが、ベッドが空いたので入院して経過をみることになった。長い間、テレビ局の報道部に勤務。男性仲間とバリバリ仕事をしてきたとか。退社時には課長までなった。仕事が面白くて、気がつけば、独身のままだった。四十代で乳癌になり、片方全摘した。

 退社して貯めたお金で、都心にマンションを買い、薦められて料理屋の女将になった。

 波に乗りかけたころ、バブルが弾けて、借金背負い一文なしに。やっと返済して、いまは公団のマンションで一人暮らし。削ぎ落としていくことの清清しさに満足はしているが、体のことはやはり気になるとか。新聞もテレビも、報道番組を観るのが好き。病気の回復を願うことはもちろん、虫歯は一本もないそうだ。私にない生き方に憧れる。

 

なんにんか入れ替わった患者さんの一人は、退院のとき、自分のハンドバックがなくなったと大騒ぎしたが、ゴミ箱に捨ててあった。ご飯も食べたかどうかわからない。長生きすることのリスクが入院中に現れてくる。退院時まで借りている体温計を紛失して、売店で買って弁償した人もいた。借りている携帯用心電図も破損すると弁償だろうか、大切にしなくてはいけない。心臓病で縁あって同室。人生の重さや悲しさを分けあう不思議な仲間だ。

 

 

窓際のアトリエ

 

 病状が回復してくると、入口から遠い窓際のベッドに移った。窓が大きく開いいて、千葉の市街の向こうに千葉港やコンビナートが遠望できた。

 絵を描くことは好きなこと、良くなれば描けるだろうと、夫がスケッチブックと水彩絵の具を持ってきてくれた。

 窓から見える紅葉や、お見舞いにいただいた花籠のガーベラ、側にあるペットボトルを描いていた。すると、向かいの〈気配り彼女〉と隣の〈元キャリアウーマン〉が、前から描いてみたいと思っていたと覗き込んできだ。それではと手持ちの和紙のハガキに、花や靴下、蜜柑などを描いてごらんと、描き方を教えてあげると、初めてなのに、びっくりするくらい上手に描いた。そして、とても熱心に数枚を完成させた。

「退院してからも続けてね」

と、道具のセットを買い揃えることをお勧めした。看護師さんの一人にも、セットを教えてあげた。思わぬ交流ができた楽しいひとときだった。

 そろそろ、

「その後いかが」

赤い椿でも描いて、絵手紙の便りを出してみよう。

 

病院の一日

 

 朝の六時、マイクの声で起こされる。

「みなさんおはようございます。血圧測定に行きますのでお熱を測ってお待ちください」

 病室外に歩ける人は、自分で体重測定をする。それ以外は、持込の体重計で計ってくれる。きのうの食事量や飲んだ水の量を聞かれる。私は、術後の水分制限は、千四百ミリリットルだったが、お茶も含めて、そんなには飲めない。看護師さんはみな、よく訓練されていて気持ちがいい。若さが眩しい。ワゴンに計器や資料を載せて、カーテンで仕切られた個室を回る。午後一時三十分と午後六時に血圧と体温測定がある。     

 主治医は、九時半ごろと午後にも、変わったことはないかと、容態を尋ねてくれる。顔を見ただけでも、やはり安心する。私の場合は、術後一週間は、エコーと心電図は一日三回は撮った。胸にゼリーを塗り、エコーを撮るときの手の力や動きは、S先生・研修医のO先生・医学生のMさんで、それぞれ違う。画像に写った私の心臓の筋肉がドックドックと動いている。

「よくなっていますね」

の一言は嬉しい。小さく光る星が二つ見えるが、埋め込んだステントはエコーでは見えないそうだ。食事は、朝七時半・十二時・午後六時ごろ。美味しくはない。その上、減塩食である。回復のために、ご飯は半分残し、おかずは全部食べる。薬も十種類飲む。

「安いモヤシや、厚揚げばかり」

と、食事の不味さの文句で、部屋中が盛り上がることもある。

 

歩行許可とリハビリ

 

 十日後に、やっと、病棟内を自由行動する許可が出た。食事も配膳室と談話室を兼ねた部屋ですることができる。夜景が素晴らしく、看護師さんのお薦めスポットでもある。良い席を確保するにはお早めに。長男一家が来てくれたときもここで面会した。

 トイレの許可が出たので、行って驚いた。名前の書いてある専用カップに尿を採る。現金自動支払機のような機械が置いてある。女性はピンク、男性はブルーで名前が書いてある。自分の名前を押すと、〈尿をお入れください〉と音声ガイドが。入れると閉まり、〈ただいま、計量しています〉と。量が二百ミリリットルと比重が1.0127と表示されて終わる。消毒液でカップを洗って、もとの棚に戻しておく。こんなところでもハイテク化が進んでいる。

 食事の後の歯磨きに洗面所に行くと、若い女性がお洒落な着衣で丁寧に歯磨きし、鏡の前で右や左に向きを変え、姿を長く映している。マシュマロのような綺麗な肌のその女性は二十五歳とか。腎臓が悪くて、入院も長いようだ。そう言えば、丸顔なのは浮腫があるからだろうか。その片方には、男物のパジャマをダラリと着た私がいる。しみだらけの顔は、長く見たくはないので、さっと磨いて速やかに立ち去る。それにしても、顔も体も、磨きもせず、怠惰に生きてきたことだと反省する。入院してみると、生き様が曝け出されて、そのまんまの自分に向き合うことになるのだ。反省猿の心境である。

 午前中は検査や回診などで忙しい。部屋の掃除・月曜日のシーツ換え、午後からはお見舞い客の来訪があり、夫が着替えを持ってきてくれる。病人だから安静第一だ。まだまだ私の頭と体は、心臓が占領していて不安で一杯である。

 体調が良くなって、シャワーの許可もおりた。どこに行くにも、モニター心電図をつけたまま。外れると、看護師さんが飛んでくる。点滴のトラブルで、いつも誰かのブザーが鳴っている。ナースコールを押して、また看護師さんが飛んでくる。

 テレビを観たり、本を読んだり、食事をしたりしていると、九時の消灯時間の呼びかけがある。それから長い長い夜が始まるのだが、九時二十分になっても電気が消えない日があった。バレーボールの世界選手権大会を観ていた。激しいシーソーゲームで、これは心臓によくないと思うが面白かった。日本が勝って延長戦が終わるまで待ってくれたのである。ナースステーションでも手に汗握っていたことだろう。

 

お見舞い客

 

 一週間で病状が安定し、友人知人がお見舞いに来てくれた。救急車で運ばれたとき、私のバックに入っていたアドレス帳を見て、夫が連絡してくれたのである。七つ、八つ趣味や交流のグループに属しているので、後のことをお願いするためにも、連絡は必要であった。〈心筋梗塞〉の病名に驚いて、また心配して、駆けつけてくれたことはありがたかった。病室の椅子は一つで、入り口区画は暗くて狭い。まだ、点滴も酸素チューブもはめていたので、かなり惨めな姿だったろう。

「ほんとにびっくりしました」

「思ったより、顔色も良く元気そう」

と、温かい毛糸の靴下や、グラフ雑誌やお見舞金などいただいた。日曜日には十人ほども来てくれた。一人一人に繰り返し、ことの起こりを説明していると、やはり疲れた。

 窓側の区画に移ってからは、お見舞の方にも気を使わないでよくなった。窓いっぱいに朝の光が差し込み、明るく気持ちよかった。

 十階からの眺めは素晴らしい。晩秋の街は、紅葉に彩られ、犬を連れた散歩の人たちが行き交い、信号の赤で止まる車の列が並ぶ。動いている街の佇まいが新鮮に映る。

 夜景もまた素敵だ。遠くには、コンビナートの煙突が立ち並び、白い煙が灰色の空に勢いよく昇っていく。風の向きで煙の方向が変わるのを眼で追っていると、長い時間が過ぎていた。気持ちが明るくなり、元気になった。病室の環境は、回復力にも影響する。六人部屋でも、すべて窓側に向いた病室のある新病棟を建設中と聞いたが、もう入院はしたくない。

 入院中、延べ三十人のお見舞いを受けた。有名人なら、長島茂さんのように、息子さんが記者会見して、容態発表するだろう。只の人には、それはない。一人ひとりに、前兆やことの起こり、いまの病状は私自身の発表である。だからこそ、家族や友人や知人の温かさを心の底から感じ、命の繋がったことに感謝することができた。

 

医療チーム

 

 狭心症や心筋梗塞のカテーテル治療は、循環器内科に属する。胸を開く手術をするのは心臓血管外科である。

 手術室では、声が大きく行動力のありそうな医師が、主として治療に当たってくれた。

 病室に移ってから、名前は書いてあるが、お目にかからずに退院した。

 切れ味鋭いクールなS先生に。冗談も言えない雰囲気だが、家で寝転がってテレビを観ている姿を想像してみる。既婚のようだ。眉毛は濃く、おっとり型のO先生は、細かい処置をしてくださる。サッカー好きでスポーツマンだが、研修医二年目で、休日もなさそうな様子だ。

 もう一人、眼鏡をかけた声の綺麗な女性Mさんは、医学部の五年生。元サッカー部のマネージャー。いまはバスケットに夢中とか。スポーツ医学を志したが、進路は未定だということ。この三人が、チームワーク良く、私の治療に当たってくれた。

 大学の付属病院は、学生の勉強の場でもある。許可を得ると、患者について、家族の病歴や本人の病歴の過去、現在を聞き取りして症例研究に当て、先輩に教えてもらいながら簡単な治療の実習もするシステムになっているとか。女性の医学生も増えているようだ。信頼することが早く良くなる道だろう。しかし、患者は弱い立場。採血の針を二、三回刺されても、術後の手首が痛くて訴えた時、急患で来られなかったと言われれば、じっと我慢。薬を飲んで、水分量も守り、病院食以外は口にしない。

 患者ランキングでは上位のほうだろうと思う。

 同じ主治医だったので仲良くなった隣の元キャリアウーマンと食事に行こうと、パジャマ姿でコップを持って廊下を歩いていた。すると、

「お二人さん、仲がいいね」

の声に、振り向くと、白衣の三人チームの笑顔があった。テレビドラマの一シーンのようだった。

 いい空気が流れた。いつも上から見下ろされているが対等の目線のせいか、一瞬患者であることを忘れていた。

 

病状説明

 

 ほぼ三週間の入院生活も、順調な回復で終わりを告げようとしていた。退院後の注意や病気の解説、薬の説明を書いたイラスト入りの『心筋梗塞パンフレット』も貰った。

「家族の方を呼んでください。説明します」とのことなので、夫と二人で緊張した。

 ナースセンターの午後四時過ぎ。多くの医師がパソコンに向かって、きょうのデータを打ち込んでいる。背中に冷たい空気を感じる。誰も振り向きもしない。警察署に交通違反で呼ばれたときのような心境である。奥のほうのテーブルを囲んで、看護師たちもミーティングの最中のようだ。白い巨塔の一面を覗いたような気がした。

 マスクのS先生の手には、三本の冠動脈が木の根のように囲む心臓の模型が乗っている。

「いま、ここにあなたはいますけど、もしかして」

と、重症であったことが告げられる。後ろのテレビ画面に私の心臓が映し出された。最初は真っ暗で、血管が見えない。血流が止まっている画像が映る。カテーテルで広げ、ステンレスの籠のようなステントをはめ込み、再狭窄を防ぐ治療が、良い薬、良い技術で行われ、再び、先まで流れるようになった画像が次に映し出される。重症だったが、心筋の回復が早く、日常生活に戻れることは幸いだった。

 現代医学の進歩と熟練した医療チームによって命が救われたことに感謝した。退院後のホームドクターへの引継ぎ、薬の効果と副作用、直径二・五ミリ、長さ二十八ミリのステントを入れたこと。二~三十%の割合で起きる可能性がある再狭窄のこと。しばらくは車の運転はしないほうがいいこと。重いものは持たないように。激しい運動はしないよう。半年後の再検査を忘れないようにと。注意が伝えられた。

 はっきり言われることを望んでいるのに、リスクのことばかり聞くと、黒雲に覆われたように、気持ちが落ち込んでいくのをどうすることもできなかった。部屋に帰って布団を被った。心配だから、このままずっと入院していたいと思った。

 

退院後

 

 退院の日、主治医三人チーム、それぞれに病室を訪れてくれた。

マスクを取ったS先生がにっこり笑って、

「大丈夫ですよ」

と言ってくれた。切れ者の笑顔が可愛かった。

 看護師のKさんは、

「お友だちが『快気祝い』をと言ってくれたら、全部断ってくださいよ。『快気祝い』で疲れて、また戻ってくる人がたくさんいますよ」

と注意してくれた。忠告を守って、年末には快気祝いも忘年会も全部断った。

 薬剤師さんは、退院後も続けるたくさんの薬剤の説明を丁寧にしてくださった。

 入院費用の請求書をじっとみる。三割負担でもかなりの額だ。これが命の代金か、高いのか安いのか。

 窓から見える風景にも、きょうでお別れ。もう来たくないが、名残惜しい。コンビナートの煙をスケッチブックに描いた。親しくなった病友たちとは、元気になって会いましょう、と再会を約束した。心臓外科手術を決心した重病の彼女には

「成功を信じて頑張ってね」

と手を握った。教授回診が来ないうちに、下に降りて、払いを済ませ、落ち葉の舞う歩道をゆっくり歩いた。秋は終っていた。

 退院後は、近所のホームドクターに診てもらっている。六日後には血液をサラサラにする薬が効き過ぎて血尿が続いた。不安定な精神状態で動悸や不眠に悩まされた。寒いときなので風邪を引かないように注意した。お正月はお節料理も作って家族と過ごした。家族、友人、知人から電話や手紙の励ましを受けて、元気を貰った。

 術後、ほぼ三か月たったころ、全面休止していた趣味のサークル活動も、絵を描くことから始めた。欲張らず、ゆっくりの熊さんの生活。野菜中心の食事作りには時間をかける。

 夫が付き合ってくれるウォーキングは、少しずつ距離を延ばし、早歩きの一時間コースが楽にできるようになった。我が町・あすみが丘の草木と鳥の観察も面白い。花屋さんで、きょうは桜草を買った。団子より花。減塩や減量に努めているので、ケーキ屋さんは横目で睨んで通り過ぎる。ショートケーキの残像がある。そのうち爆食するかもしれない。

 二週間に一度の受診で経過観察をしてもらっている。再狭窄の不安は拭えないが、気持ちは安定している。電車に乗って都心に出かけることもあまりなく、交通費は激減。歩くのでバス代もいらない。入院中は、パジャマと歯ブラシさえあれば、こんなにシンプルに生きていけると思っていた。いまはネックレスもぶら下げている。死ぬとは思わなかったが、生きていることが素直に嬉しい。病気入院を経験して、削ぎ落とされたものや付け加えられたもの、いろいろあって新鮮である。

 一月中旬には、電車で三十分の千葉市内にも出かけられるようになった。一月末には一時間以上かかる東京にも出かけた。ハンドバッグにはニトロを入れて。

「血液をサラサラにする薬や血圧を下げる薬など、十種類ほど飲んでいた薬の種類も量も減り、回復は順調である。あとは六か月後のカテーテルによる血管検査をして、なにごともなければ、海外旅行や軽いスポーツもできるようになることと楽しみにしている。」

 

二〇〇七年二月記

 

付記

 

平成十九年八月初めに八か月経過後の検査入院をした。結果は順調に回復しており、問題ないとのことであった。軽い抗血栓剤のバイアスピリン、コレステロール抑制剤、血圧降下剤は続けて服用している。もちろん、ニトロは手放せない。

 日常生活としては、毎日のウォーキングとダイエットに努めている。それに、ストレスのかからない楽しい毎日を過ごすようにしている。

 秋には、ドイツ旅行にも行ってきた。

 

二〇〇七年十月記

 

医学用語は医療材料が専門の夫に確かめた。