2008.2.11

西村 三千男 記

 

連載「ドイツ化学史の旅・パート2のこぼれ話」

 

第12回 E.メルク社〜その5(液晶事始め・後編)

 

レーマンが提唱した「液晶」の概念を巡る学会の論難と論争は長年続いた。レーマンが

E.メルク社の提供する高純度「試薬液晶」を用いて、「液晶現象」の再現性を繰り返し

証明したお陰で徐々に学会でも容認されてきた。1920年代にフリーデルらフランスの

研究グループがレーマン説を支持して、論争はほぼ決着した。しかし、ゲッティンゲン大

学の無機化学と物理化学のボスであったタンマン教授は終生「液晶」を肯定しなかったと

記録されている。(なお、発端となったレーマンの論文は101年後の1989年の液晶

学会誌に全文英訳して掲載された(Liquid Crystals, Vol.5, 7-18))。

 

 その論争に刺激されて、液晶研究は活発になり、1930年頃までに数百種の液晶化合

物が合成され、その物性が測定された。液晶のための学会、発表会、討論会も多く催行さ

れたが、液晶に工業的用途が見いだせないことから、1930年代になって研究は下火と

なった。E.メルク社内の液晶研究も休眠状態になった。同社開発史(The History of

The Future)には「The Sleeping Beauty slumber 眠れる美女の微睡」と表現してある。

 

世界中で研究休眠中となった「液晶」は物理化学の教科書に1つの小項目として記述さ

れるだけの存在となった。我々アイソマーズが学部3回生で履修した田村幹雄先生の物理

化学、その講義録は後年教科書となって出版されたが、その中でもご同様に簡単な記述に

止まっている。

 

 「美女」の「微睡」は約30余年間続き、それから覚醒するのは1960年代後半であ

った。覚醒のキッカケは主としてアメリカ合衆国の電機会社(WH社、RCA社など)の

研究グループからもたらされた。サーモグラフィー、非破壊検査、診断薬等々の液晶の特

性を活かした種々の用途が提案された。それらの中で「極めつき」は今日の「液晶表示装

置LCD」の基礎となるアイデアの提案であった。衝撃的なこれらのニュースにE.メル

ク社は敏感に反応し、液晶の用途開発研究グループを組織した。往年の研究資産がファイ

ルされているので、研究の立ち上がりが早く、成果の特許化でも世界に先行した。液晶化

合物の市販でも独走した。液晶開発社史には、この頃の社内の状況を活き活きと描写して

いる。斯くして、「微睡」から覚醒した「美女」はE.メルク社に先端的な成長事業分野

を切り開かせた。

 

更に約30年後の1990年代後半には、LCDの需要が爆発的に増加して、液晶事業

はE.メルク社の戦略成長部門となった。LCDパネルの生産工場が集積している日本、

韓国、台湾に地域密着型の研究開発センターと液晶材料配合プラントを設置した。本稿の

情報源である液晶開発社史には英語の他に、日本語、ハングル語、中国語の序文が付いて

いる。巻頭に液晶販売量の急成長を示すヒストグラムが載っている。横軸は年号だが、縦

軸は数量か金額か単位も明示されていない。パターンで急成長を印象付けるだけである。

ダルムシュタット工場見学中に「液晶の年生産量は?売り上げ高は?」と質問してみた。

Ms. Eiers はこれにだけは答えてくれなかった。

 

(以下次回)

 

追記:

E.メルク社の紹介が冗長になってしまった。今回訪問するまで、私は同社を殆ど認識

していなかった。いろいろ調べて分かったことは書きたくなった。お退屈様でした。

次回から本来の「こぼれ話」に戻します。

する