中村さん

 私も小学校の先生に思い出があります。下記は2004年に執筆したエッセイ『土佐の原風景』の一齣です。土佐弁で書いています。すみません。

 

村の小学校

武山高之(2008.6.6

 

 戦時中の国民学校の三点セットは、奉安殿(教育勅語・御真影を保管)、国旗掲揚台、二宮尊徳像であった。薪を背にして、読書する尊徳像は校門の横にあった。このほかに、朝礼台があった。奉安殿と二宮尊徳像は、戦後取り払われた。

今では、全てが死語になった。

 東京駅八重洲口のブックセンターに二宮尊徳像がある。今の子供には、この全てが理解できない。「この人誰え!」「背中に何を載せているの?」「歩きながら、漫画の本を読んだらいけないんだよね!」

 私は終戦の年の四月に、東京から疎開して日下国民学校の四年生になった。都会から転校してくると、コトバが違い、

「おんしゃ、おなごみたいなこと言うなや」

といじめられそうになったが、隣家の高等科に通っている兄貴分に、

「おんしゃら、こいつをいじめたら許さんぞ!」

と助けてもらって、事なきを得た。上級生が下級生の面倒をみていた時代であった。

 当時は、大阪から疎開してきた子も数人いた。転校生に対して結構いじめがあった。

 高知の空襲があり、焼け出された人がやってきて、敗戦になり大陸からの引揚者が帰ってくると、様子が変わってきた。日下小学校の先生の子供も、高知からやってきた。農家の離れなどに住んでいた。転校生が多くなり、村の子もいじめてばかりおられなくなった。

 引揚者の中には、親の無い子もいた。髪を男の子のように短く切った女の子もいた。どんな辛い目にあったかも想像できなかった。家がなく、バラックを立てて住んでいる人もいた。

 当時の学校はもちろん木造であった。一階建てで、二階があるのは教員室のところだけだった。全ての教室には、濡れ縁の廊下があり、そこから上がるようになっていた。廊下の端には、小使いさんの住まいがあった。始業と終業の鐘を鳴らして回ってくれた。小使いさんの住まいの隣には風呂があり、宿直室があった。小使いさんも、宿直も、始業の鐘も死語になり、思い出の中にだけ残っている。

 冬には、ストーブか囲炉裏か火鉢か何か忘れたが、火が入っていて、教室を温め、弁当を温められるようになっていた。弁当箱はアルマイト、真ん中によく梅干を入れていたので、穴が開いたりした。おかずは煮しめが多かった。

「汁がこぼれて、教科書が汚れた経験はないですか?」 

終戦後には、その教科書は墨でアチコチ塗りつぶされていた。

 大きな薬缶でお茶を入れ、弁当箱の蓋に注いで飲んでいた。蓋に穴が開いていると都合が悪かった。茶碗やコップが無かったのだろう。

 二、三年前に何十年振りかに、加茂に住んでいる当時の担任の先生を訪れた。そこでお聞きした話である。

 一人の貧しい家の子がいて、弁当を持って来られなかった。弁当の時間には、いつも教室の外に出て、淋しそうにしていた。師範学校を出たばかりの先生は、お母さんに頼んで、大きな弁当箱に一杯メシを詰め、蓋にそのメシを分けて、この子に食べさせたという。白飯だったか、麦飯だったか、からいもか田いもが交じっていたか知らないが。

 子供だった私は気が付かなかった。「今まで、普通のありふれた先生だったと思っていたが、いい先生だったんだな」と思い、胸が詰まった。普通のことができるのが、いい時代であった。

 敗戦のとき、

「君たちが大きくなったら、必ずかたきを討てよ!」

といったのは、教頭先生だった。

 その先生が、一年もしないうちに、軍国主義教育とは反対の民主主義教育を始めた。子供心にも変な気がした。

 今まで、「天皇陛下のために」と教育されてきたのが、「マッカーサーの命令だ」と全てが片付けられるようになった。祖父や父親は悔しがっていた。

 近所に、腰の曲がった働き者のおばあさんがいた。あまり働くので家族は、「おばあちゃん、あんまり働きなや マッカーサーに怒られるぜよ」

と言っていた。

「マッカーさんに連れていかれたらいかんきに」

と言って、休んでいた。

 担任の先生は、若く経験不足だったと思う。それでも、懸命に読み書きと算数を教えてくれたことが印象に残っている。宿直の晩に呼ばれて、皆で風呂に入ったことを覚えている。当時、他所の家や旅館に泊まることも少なかったので社会経験の一つであった。

 そんな時代であったが、小学校の修学旅行には、讃岐の金毘羅さんに行った。行けなかった子もいた。

 

「仰げば尊し」(明治十七年)   仰げば尊し 我が師の恩