源氏物語千年紀と眼鏡拭きと私

武山高之

 

(その1)

 

今年は源氏物語千年紀である。『源氏物語』のことが書かれた最も古い記録は100811月1日の『紫式部日記』だそうだ。

 

この日記で、『源氏物語』のヒロイン「紫の上」の少女時代が書かれた「若紫」のことが話題になっており、少なくともこのとき以前から物語が書き始められていることが判っている。瀬戸内寂聴さんの現代語訳を見ても文庫本10冊に及ぶ長編であり、完成までには数年は掛かったと思われる。

 

ともかくも今年を千年紀として、『源氏物語』ゆかりの京都と大津、それに宇治で記念の催しが行われている。いずれの場所も、私が青春時代を過ごした思い出の地である。

中でも大津の石山寺は、私が長年勤めていた東レ滋賀事業場の近くで、春の桜、秋の紅葉、初詣とよく訪れていた。そこには、紫式部が『源氏物語』の「須磨」「明石」を書いたという「源氏の間」があった。小さな薄暗い部屋であった。なぜ、こんな部屋で、華やかな王朝物語が書けたのだろうかと、疑問に思ったことがある。

 

東レ滋賀事業場は石山寺とは近所付き合いの仲で、東レ物故者供養塔が祀られている。そんなことで、この事業場に勤めた者には、石山寺も『源氏物語』も身近な存在である。

 

 昨年の秋、大津で東レの下請け会社の社長をやっている後輩から東レの眼鏡拭きトレシーの新製品2枚を送ってきた。『源氏物語』の図柄である。東レも源氏物語千年紀の事業に参画することになったということであった。1枚は良く知られている「十二単を着た紫式部」の図柄である。もう1枚は物語の一場面の『末摘花』である。源氏物語を通読したことがない私はこちらの方は詳しくない。調べてみると、「常陸の宮家の娘。容貌は醜く、古風で浮世離れしていて、和歌もろくに詠めない。源氏の逆境期にもじっと帰京を待ち、再会後は源氏に引き取られる。」とある。美男美女ばかりの物語の中で特別な存在である。

 

 なぜこのような図柄が選ばれたのか疑問に思い、後輩に聞いてみると、2枚とも石山寺秘蔵の図柄を使わせて貰ったと言う。後者は江戸時代の絵師、土佐光起作と伝えられている重要文化財だという。(2008.5.6記)

 

(その2)

 

話はかわるが、この眼鏡拭きに使用されている繊維は、ポリエステルの極細繊維である。直径は紫式部の黒髪より二桁小さい1ミクロン。40年ほど前に開発され、人工スエードエクセーヌとして、東レの利益に大いに貢献した。

 

私たちは極細繊維の技術移転先として、医療材料を考えた。極細繊維を担体に使うと、有効表面積の大きい吸着カラムが出来る。その技術を用い、これも近所付合いしていた滋賀医大と「敗血症治療カラム」を共同開発した。この開発は成功し、ICUでよく使用されている。年間数千人の命が救われている。

 

もう一つは人工血管への応用であった。これは通常の繊維と極細繊維を交織し、起毛した筒織りをした物である。横浜市大の先生との共同開発であった。ほつれと漏血がなく、細胞親和性がよい、素晴しい人工血管が出来た。しかし、インプラント材料についての会社方針が変わり、実用化を断念した苦い経験があった。

 

極細繊維の3番目の利用が眼鏡拭きトレシーである。これが石山寺の源氏物語の図柄を通して、千年の昔と現代を結びつけることになるとは誰も予想しなったであろう。 エクセーヌのように、企業に大きな利益をもたらすことはないだろうが、ロマンをもたらしてくれて、いいと思う。ついでながら、この眼鏡拭きは美顔のための洗顔用にも使われている。ただし、『末摘花』の図柄のものを使うと、容貌がどうなるか責任がもてない。

2008.5.6記)

 

(その3)

 

『源氏物語』がどのような人によって、どのようにして読まれたのだろうかと、以前から疑問を持っていた。

 

ところがその答えは、いま私が住んでいる千葉市緑区の隣、市原市にあった。市原はかつて、上総の国の国府があった地である。源氏物語の時代に、『更科日記』の作者・藤原孝標女はこの地で夢多き少女時代を過ごしており、早く都に帰って、いま流行っている『源氏物語』読みたいと薬師佛に祈っていたことが『更級日記』に書かれている。13歳のときのことである。

 

都に帰るとすぐ、伯母さんが持っていた写本を借りて、寝る時間も忘れて読み耽ったという。伯母さんは『蜻蛉日記』の作者・藤原道綱母であった。いずれも藤原道真の血を引く一族である。

 

このベストセラーの読者ははたして、どのくらいいたのだろうか?

当時の貴族社会に属する人は150家族程度だといわれているから、精々千人程度だろう。

どのようにして読んだのだろうか?

そのことに関する記録はないようだが、筆写するのは大変である。朗読会でも開いたのであろうか?

藤原道長が支援していたと言うから、道長自身も愛読者の一人であったようだ。紫式部に対して、モデルになるような情報を提供したかもしれない。『源氏物語』は光源氏というドンファンの恋愛物語であると同時に、摂関時代の政治権力について書いた物語でもあるらしい。そちらの方からの読者もいたかもしれない。

 

源氏物語千年紀のお陰で、大学時代や東レ滋賀事業場の頃、医療材料を開発した頃を思い出した。人工血管を一緒に開発して教授にも「紫式部」の眼鏡拭きを送っておいた。外国向けのお土産にもいいということなので、「化学史の旅」でお世話になったドイツのTietze先生にも送っておいた。

 

千年紀の眼鏡拭きは、初め売店やキヨスクでほそぼそと売る予定だったらしい。しかし最近、大手百貨店でも売ることが決まり、「花宴」と「初音」、さらに宇治十帖につながる「匂宮」と宇治十帖の「橋姫」の図柄が加わった。

 

秋のアイソマーズ総会のときには是非、時間を作って、『源氏物語』ゆかりの地を訪れたいと思っている。

ちなみに、紫式部の住んでいたのは、御所の東側で府立医大に近い廬山寺あたり、「若紫」との出会いの場は岩倉、「末摘花」が住んでいたところは御所の南東の角、「匂宮」の舞台は大覚寺・大澤池、「橋姫」ゆかりの橋姫神社は宇治橋の西詰などと位置を推定している人がいる。

 

いずれもアイソマーズの皆さんには馴染みの地名である。インターネットの時代であり、正確さを気にしなければ、この種の情報はいくらでも入ってくる。

2008.5.6記)