ドイツ化学史の旅 パート2

武山文子

(平成十九年十二月記)

《化学史の旅をもう一度》

 

 二〇〇五年六月、化学専攻の大学同級生たち〈アイソマーズ〉とその妻たち、十三人のメンバーは〈ドイツ化学史の旅〉に出かけた。十九世紀の初めに異性体・アイソマーを発見したリービッヒゆかりの地ギーセンを訪れ、化学博物館長ラクア教授の実験室を訪問した。ハイデルベルクではブンゼンバーナーの発見者ブンゼン像を探し歩いて日が暮れた、楽しい旅だった。企画の途中で亡くなった級友の追悼の旅でもあった。

 二〇〇七年九月、暑さが残る日本を後にして、五組の夫婦、十人のメンバーで再び〈ドイツ化学史の旅パートⅡ〉が始まった。

今回は、前回同様にフランクフルト空港に集合し、ライン河畔のマインツ、化学史の旅の第一目的地ダルムシュタット、中世の魔女伝説の街ゴスラー、化学史の旅の第二目的地ゲッチンゲン、中世のプレッセ城、マルティン・ルターゆかりのバルトブルグ城、ゲーテとシラーの街ワイマール、エルベ河畔のドレスデン、ポツダム宣言のポツダム、ベルリンと廻り、ベルリン空港で解散する十日間の旅であった。移動は全て専用のバスを使用した。化学史に、史跡めぐりと美術・オペラの鑑賞が加えられた。

 

《ダルムシュタット工科大学とメルク社》

 

最初の宿泊地マインツでは、活版印刷のグーテンブルグ博物館を訪ね、ライン河をスケッチした。次にダルムシュタットに向かった。

ここではリービッヒの一番弟子で、ベンゼンの構造を提唱した有機化学者ケクレの足跡をたどるため、ダルムシュッタット工科大学を訪れた。大学ではケクレ記念館を見学した。入り口には最近のノーベル化学賞のパネルが架けてあった。白川教授、野依教授、島津製作所の田中さんと三人の日本人の写真もあり、誇らしく思った。建物はベンゼンの構造に合わせて六角形で、床タイルも六角形であった。階段教室にも座ってみた。記念館見学の後、学生食堂の野外にあるテーブルで昼食をとった。外来の老年組に好奇の視線を感じながらも、気持ちは若返り、学生時代に戻っていた。暖かい陽が降り注ぎ、前の芝生に西洋タンポポが咲いていた。

ダルムシュタットは、リービッヒとケクレが生まれた街でもある。街中を散策していて、二人のレリーフを見つけて、アイソマーズは感激していた。記念館も街も二人につながる物が一杯あった。前の旅も含めて、なんどもお目にかかったので、私はリービッヒの似顔絵が描けそうだ。

三百五十年続く大製薬会社メルク社の工場見学と、この会社の出発点であるエンゼル薬局の見学は、アイソマーズのみで出かけた。女性たちは街を観て歩く別行動をして、メルク社工場門に資料を抱えて満足顔で出てきた男性たちを出迎えた。案内役の女性に日本酒の樽酒をお土産に手渡した。私たちもお土産を頂いて、迎えのバスで工場を一回りしたが、街の一角を占める大きな工場であった。

 

《ゲッチンゲン共同墓地 お墓は語る》

 

ダルムシュタットの次は、魔女のいる中世の街ゴスラーの観光をしてから、ゲッチンゲンに向かい、NHホテルに宿泊した。

この街は、リービッヒとともに異性体・アイソマーを発見したヴェーラーがいた所で、その足跡をたどるのが旅の重要な目的の一つになっていた。共同墓地にはヴェーラーのお墓もあることは予め調べていた。偶然にも、その共同墓地はホテルから歩いて五分のところにあった。誰でも自由に入れる公園のようになっていて、姫りんごの木には可愛い実が一杯成って、秋たけなわであった。樫の木からドングリが降るように落ちてきた。きれいに整備されていて散策も気持ちが良い。ジョギングする人にも出会う。敷地内に点在する墓石のデザインもそれぞれ、墓地でも暗いイメージはない。落ち葉を踏んで奥のほうに進んで行くと、ヴェーラーやノーベル賞を受賞した多くの科学者の墓を探し当てた。そこらに咲いていた薄紫の秋咲きサフランを手折って墓に供えた。ノーベル賞受賞者の顕彰パネルも作られていて、それを見ると科学者たちの歴史的重みを感じることが出来た。

 

《大学の街ゲッチンゲン》

 

この街は、旧市庁舎前の広場を中心にどこでも歩いてゆける距離に観たいものがあり、心休まる街であった。広場の中心には〈ガチョウ番の娘リーゼル〉の銅像があった。噴水の台の上に、ガチョウを従え、左手に花籠を持った一メートルぐらいの可愛い像だ。取り囲む台座周りに、市民も観光客も座ってお喋りを楽しんでいた。

アイソマーズ一同は、広場横のカフェでパスタの昼食を取って、これからお会いするゲッチンゲン大学のティーツ先生を待っていた。

広場を通り過ぎる花模様のミニスカートの女性に見とれていると、黒い服で正装した学生と教授らしき人がなんにんかやって来た。銅像によじ登って籠に花束を入れて、はにかみながら娘にキッスする光景が目に止まった。パチパチと拍手が起きた。学生は博士号を取ると、この娘にキッスをする慣わしがあるそうだ。この娘は何万回のキッスを受けたのだろうか。

学問の街ならではの本番に出会ったのに、見とれているうちにシャッターチャンスを逃して残念だった。広場には花屋や野菜売りの出店もあって、ぐるりと観て回るのも楽しい。あちらの雑貨屋さんに寄ってみようと歩き出した。

 

《ティーツ先生のお宅訪問》

 

ティーツ先生がやって来た。先生はゲッチンゲン大学の有機化学・生化学の教授で学部長でもある。ドイツ化学会会長もしている偉い方である。肩書きを見れば、近寄り難い印象だが、長身黒髪でどこか東洋的な感じもする気さくな方で、街の案内にと専門のガイドを紹介して下さった。

科学に強い女性ガイドの熱心な案内で、今はインフォメーションセンターにもなっている旧市庁舎の中の建物のからくりなど見て廻った。街角のヴェーラーハウスの近くに、青銅のヴェーラー像があった。像を囲む地面のタイルに尿素の化学式が模様のように組み込まれているのがにくい演出だ。ヴェーラーは無機物から有機物の尿素を初めて合成した人と聞く。

学生牢もあって、部屋にはトイレ、机やビール瓶がそのまま、ほこりを被って置いてある。個性的な絵や文字の壁の落書きがなんとも面白い。楽しい牢獄のように思えた

先生の案内で大学の構内に入った。歴代の著名な化学者の写真が並ぶ、化学教室の資料館や大学キャンバスの見学が出来たことは貴重な体験であった。モダンな建物の大学構内にいると、古い伝統を受けて、新しい学問を育てる息使いを感じることができた。

最後に、先生は私たちをお宅に招待して下さった。紫の服がお似合いの素敵な奥様はフランス語の先生。手作りのケーキをご馳走になった。運転手さんも誘われ、男性組、女性組に分かれてテーブルへ。ケーキは木苺が乗って美味しそうだ。もう一つチョコレートケーキも用意してくださって、先生が切り分けて、一人ひとりのブルーのお皿の上に配ってくださった。

緊張したけれど、家庭に招かれてやはりうれしかった。部屋に飾られた絵や置物を見ながら、熱い紅茶をいただいた。ドイツ語の出来る夫人たちの会話はぐっと弾んでいた。

 

《中世の古城でディナー 麻布袋でドレスアップ》

 

 昼間は市内見学、大学訪問、教授のお宅訪問と忙しいスケジュールをこなし、あわててホテルに帰った。夜は教授ご夫妻のお薦めで、中世のお城での夕食会となった。

バスは木々の間をくぐり、郊外の山に登って行った。専用バスは三十人乗りのベンツである。山頂にはこじんまりした中世のお城プレッセ城があった。城壁の向こうには真っ赤な夕焼けに包まれた街が静かに暮れようとしていた。振り向けば半月の月が古城の上にあった。

自分勝手にお城の広間での優雅な雰囲気を想像して、少しおしゃれをしようと女性五人で申し合わせた。私は黒いブラウスとパンツの上に縮緬のひらひら布を巻きつけ、ありったけの真珠をぶら下げて、ドレスアップした。仲間も目一杯着飾って上気顔。先に到着していた教授夫人はグリーンのセーターにツイードのパンツスーツ姿で迎えてくださった。入り口ではシェークスピアの劇に出てくるような衣装を着た髭の男性がラッパを吹いての歓迎式。赤いつば広帽子に赤とオレンジの振り分け服を着て、黒い大きな鞄を肩掛けにし、左足はグリーンの靴下。ふくらはぎには鈴をつけている。

 穴倉のような地下室に案内された。十二畳ほどの部屋に長テーブルが置いてある。窓際の暖炉の石のアーチは十二世紀のものとか。下には魔女の人形などが置かれている。

〈椅子の背に架けてある麻布を着てください〉

と促され、長方形のドンゴロス袋から首と手が出る。これぞ中世のドレスアップだろう。真珠もダイヤも麻袋の下に隠れてしまうと、さっぱりした気持ちになる。王様付のエンターテイナーは古い中世の曲をギターのような楽器で哀愁を帯びた曲を物悲しく奏でる。食卓には鉄の蜀台が二つ。食器は素焼きの茶色い丸皿。割り箸のような素材のスプーンとフォークが皿の上に十字を切って置かれている。どうやら私たちは、ブリューゲルの絵の世界へと迷い込んでしまったようだ。代々の城主はどんな人だろうか。

白いマグカップで乾杯。ビールはサイドテーブルの樽からお変わり自由である。今日の王様役はこの旅行をアレンジしてくださった仲間のFさん。侍従役が教授。食べ物が運ばれるとお毒見役の教授が一口食べてみる。顔を歪め苦しんで床に倒れる演技をして、皆を笑わせた。

サラダはほうれん草に似た緑の濃い野菜が素焼きのボウルにいっぱい。硬い丸パンは荒挽きの小麦で焼いてあるのだろうか。ラードと塩で食べる。噛んでいると味が出る。魚料理は鱒のマリネ香草添え。味付けは酸味がきいている。香草・ディルの乗った白いカテージチーズのようなペーストをつけて食べるが、魚好きの私は美味しくいただいた。ぶつ切りした鳥のレバーは後で気がついたが七面鳥のレバーだった。メインは七面鳥の丸焼きだ。侍従が切り分けてくれたがなかなかのボリュームであった。なんかいもお皿がまわってくるが食べきれない。

食事は厨房から若い給仕が運んでくる。合間に音楽が奏でられると、哀愁を帯びた曲が石の壁に吸い取られ、思いは中世の時代へと遡る。

〈これは何の曲ですか〉

〈ダンスの曲です。〉

芸人の手品が次々披露される。サイドテーブルを覗き込んでみると、怪しげな袋の中に、コイン・トランプ・リング・ロープなどが入っている。お客さん全員参加で盛り上げる。

〈どちらの手にコインが?〉

当てた私は丸いチョコレートをご褒美にもらった。

芸人がテーブルの周りを歩くたびに、ふくらはぎに付けた鈴が鳴るのが可愛く感じた。

デザートに葡萄と、なぜかラディッシュも出るころには、芸人も汗を拭きながら、最後の見せ場を演出する。口から火を吹くあの手品だ。エタノールを口に含み、炎が天井に吹き上がれば、拍手喝采。王様役のFさんもご満足。

そこへ駆け込んできたバスの運転手さん。ドイツでは労働時間が法律で決められている。もう十五時間の拘束時間を過ぎているという。連続実労時間は六時間。解放してあげなければいけない。バスは我々をおいて、先に帰ってしまった。

晩餐を楽しみ、中世の夢から覚めて、城門を出た。空を仰ぐと頭上に青白い月があった。月は千年もこの城の盛衰を見守ってきたことだろう。一同は教授のベンツとタクシーに分乗して、木に囲まれた小さな城、プレッセ城を後にした。

 

《ドレスデンは蘇っていた》

 

 ゲッチンゲンの次は、ドレスデンに向かった。高速道路から見る風景は、緑の森が多い。森を抜けて平地に出ると、トウモロコシ畑が果てしなく続く広大な眺めである。所々に、風力発電の白い羽根が廻っているのが目に付く。原子力発電を控えるドイツの政策の一環でもあろう。

途中で、山頂にあるワルトブルグ城にマルティン・ルターの部屋を訪ね、ワイマール憲法で知られているワイマールでゲーテとシラーの銅像に会い、ドレスデンに着いた。

ドレスデンは第二次世界大戦中、イギリス空軍の無差別爆撃で、徹底的に破壊されたと聞いていたが、見事に昔の姿に復興し、安らぎを感じる街になっていた。

エルベ河に架かる橋を渡り街に入ってゆくと、教会の塔、ドレスデン城、宮殿などスモークされたように黒くしっとりとした建物群が目に入ってくる。どこを切り取っても、もうそのまま絵になる風景である。オペラ座、通称ゼンパーオーパーを正面に広場が広がっている。観光客も古典的な街の空気に包み込まれて優しい気持ちになるようだ。

ドレスデンはザクセン選帝候の宮廷都市として栄えた。代々の選帝侯は十二世紀末からドレスデン城に住んでいた。この城のアウグスト通り沿いの外壁には歴代君主たちの壁画《君主たちの行列》が百メートルも続き圧巻であった。見上げながら歩いて行くと、時代と共に武具や衣装が変化しているのが面白い。馬のいななきも聞こえてきそうな臨場感もあり、勇壮であった。

 一七三四年、フリードリッヒ・アウグスト一世が建てたバロック様式のツヴィンガー宮殿の美しい中庭を散策し、《王冠の門》の方へと歩いて行った。最初、フランクフルトに到着した時、寒さに震えたのも嘘のような穏やかな上天気になった。陽光がふりそそぎ、半袖姿の観光客が伸び伸びと旅を楽しんでいた。

街を歩いていると、建物の一部分が黒くなっている教会の入口に人々が行列していた。その日は日曜日で、ミサに出席する人と内部を見学したい人に分かれているようだ。

十一時になって内部見学が出来た。二階に上がってみると、円形に回廊形式なっていて、正面の立派なパイプオルガンが目に入る。このフラウエン教会は一九四五年に英軍の無差別爆撃で破壊された。六十年の歳月を費やし、市民の並々ならぬ熱意と努力によって再建された。この様子は海外にもテレビ報道されていて、私も観たことがあった。

レンガの色が黒い部分は瓦礫を市民が拾い集め、パズルの様にはめ込む根気の要る作業によって二〇〇四年に完成したと云う。内部の荘厳なパイプポルガンの音が響き渡る時、市民は喜びに打ち震えたことだろう。オペラ座も、教会も、美術館も、壊されたら再建する。自分たちの文化遺産を子孫に残すための熱意は驚くばかりである。

 ドレスデン美術館はフリードリッヒ・アウグスト一世と二世が十七世紀から十八世紀の中頃までに収集したイタリアルネッサンス絵画やオランダ、フランドルのバロック絵画が充実している。約七百八十点の作品は館内左右対称に展示され、観やすい。

絵画は多難な歴史をくぐり抜けてきていた。第二次大戦中にはすべて疎開させられた。一九四五年には、英空軍の爆撃で多大な被害を受けた。その後、ロシア軍が侵入し、美術品は〈戦利品〉としてキエフに運ばれた。幸い、その後ほとんどの絵画が返還されたという。市民の文化遺産を守ろうとする心意気が感じ取れる。時を経て、一旅行者がラファエロの《シスチーナのマドンナ》や、フェルメールの《窓辺で手紙を読む少女》の珠玉の名画に出会うことができる幸せを思った。

十七世紀の中頃に描かれたこのフェルメールの作品の前には、次々とグループが来て立ち止まり、ドイツ語・英語・フランス語で説明を聞いていた。。照明を落とした暗い部屋に、八十三センチ、六十四センチの小さい絵が渋い光を放つ。少女の額がモスグリーンの背景の中に浮かぶ絵を静かに鑑賞した。

 

《エルベ河畔でスケッチ》

 

 宝石館も、武具の展示館も見たかったが、エルベ河辺の散策とスケッチをしようと、仲間と別れた。広場の横にあるカフェでコーヒーとアップルクーヘンを昼食代わりに食べた。

ドイツ旅行中、りんご好きの私はなんかいもアップルクーヘンを賞味した。どこでも三角の一切れが大きくて美味しかった。ケーキの入るところは別腹である。

 コートもマフラーも脱ぎ捨てて、半袖にサングラス姿の人々ガ橋の上を行き交う。対岸の大きな木の下の芝生の上に腰を下ろした。周りには夫婦ずれがワイン付でランチを広げ、お喋りに夢中だ。ドイツ語らしく中味は聞き取れない。少し離れたところでは四人の若い女性が寝そべって楽しそうに話している。一人は英語のようだ。前にいる白いシャツの男性は読書に夢中。ゆったりとした時の流れが心地よい。夫と二人、スケッチブックを広げ、対岸の黒ずんだ教会を水彩画で描き始めた。芝生の前の道は、サイクリングの二人づれが軽やかに駆け抜けてゆく。ジョギングの女性がショートパンツで走る。不意に、

〈パカパカ〉

と、蹄の音に驚いて顔を上げると、黒い馬二頭がやって来た。乗馬を楽しむ人もいる。

エルベ河畔の昼下がり、木陰を爽やかな風が吹き抜けて行った。二時間近くで、スケッチを二枚夢中になって描いた。出来栄えは別として、こんな旅の過ごし方が出来たことに、充分満足していた。近くに日本庭園もあると聞いていたので、探してみたが見つからなかった。夜のオペラ鑑賞もあるので、そろそろ広場に戻ることにした。

宝石館には行かず、大きなダイヤモンドは観そこなったが、仲間のF夫人やN夫人に

〈一番贅沢な旅の過ごし方ね〉

と、少し羨ましがられた。

 

《オペラ・ローエングリーン》

 

 昼間の陽光が去り、夜闇が街を覆う午後六時頃、郊外のホテルから市街に向かうバスには、今夜のオペラ鑑賞のために、それぞれが、それぞれにおしゃれして、期待に胸膨らませた十人の紳士淑女が乗っていた。紳士五人は蝶ネクタイこそしていないが、背広をきちんと着て、昼間のカジュアルから抜け出して、ワンランクアップしている。淑女のI夫人は裾の切れたドラゴン模様の金と黒のチャイナ服が細身の体にとてもお似合いだ。F夫人は上品な紺色の模様ジャケットに黒のパンツスタイル。薄地でブルーのストールが首元を華やかに被って。N夫人は上質の格子の英国風ジャケットとパンツで決めている。ソバージュのヘアースタイルともマッチして個性的。K夫人はバラの花模様の絹のワンピースで優しい雰囲気。手作りのゴブラン織りのバックがアクセントだ。私は義母の着物をリフォームした浅黄色のワンピースに真珠。これは海外向けドレスアップのお助け服だ。日本を発つ前、みんなで、

〈オペラにはどんな服を来て行こう〉

と、遠足前の子供のようにはしゃいだ結果だが、これも旅の楽しみの一つと思う。他の観客にも失礼にならないほどのおしゃれ心も必要かと。

 ドイツのどこの街に行っても思ったことだが、夜が暗い。環境問題に熱心で、省エネにも心がけている国民性も反映している。夜のエルベ河を渡る時、漆黒の闇に黄色い光の束が控えめに川面に映った幻想的な風景は忘れられない。

 ルネッサンス様式の劇場に入ると、円形の座席が正面の重厚な緞帳を囲んでいる。丸天井にも古典的な模様が描かれている。茶色とベージュを基調として落ち着いた色調だ。

旅行社が予約してくれた席は一階のやや後方より正面のいい席だ。座席は縦に切れ目がなく、いったん席を立つと、戻る時には長い膝の列を越えなければならないが、嫌な顔一つせず、さっと立ち上がって通してくれるので気持ちがいい。

 ワーグナーのオペラ《ローエングリーン》の幕が上がった。透明感のある銀と青の大きな白鳥が現れた。物語のあらすじは調べてあった。字幕なしで歌詞が分からない長いオペラは途中で居眠りだねと言っていたが、オーケストラの繊細な調べ、主役の歌手の美声に聞きほれた。古典的な色合いを残してシンプルにまとめた衣装も美しい。群集場面の人の動きがドラマを盛り上げる。いつのまにか夢のような舞台に引き込まれた一同の目は見開いたままだった。最初の幕間にはホールやバルコニーで喉を潤しながら、舞台の感想を上気した顔で話し合っていた。なんねんか前のザルツブルグ音楽祭では観客の華やかさに度肝を抜かれたが、ここでは、オペラを市民の日常生活の一部として気軽に楽しんでいるように見えた。Kさん夫妻とワイングラス片手にバルコニーに出た。夜風が心地よく、鈍いオレンジ色に照らし出され塔のある建物の夜景を眺めながら、異国の雰囲気に酔っていた。

 次の幕間には、下に降りて戸外に出ると、Fさん御夫妻に会った。この旅の企画とお世話役を引き受けてくださったFさんに心から感謝した。

〈オペラって思いをなんばいも引き伸ばして歌うんだね〉

〈悪役に人気があるね〉

と夫と話しながら席に戻った。

三時間半に及ぶ《ローエングリーン》の幕が降りた。ヒロインは死ぬ悲劇だった。なんかいものカーテンコールに出演者は手を繋いで答えた。ブラボーも足踏み鳴らしも躊躇なく沸き起こってくるのだった。

口々に〈良かったね〉といいながらタクシー乗り場に歩いた。あれほどいた観客は自家用車や徒歩で帰ったのか広場には人影がまばらであった。

ホテルのバーで特注のサンドイッチと紅茶、男性群はドイツの強い酒、Nさんの大好きなアスバッハを何杯もお代わりして余韻を楽しんだ。

 

《ベルリン 菩提樹の木の下で》

 

専用バスはドレスデンを発って、ポツダムでプロイセン時代の宮殿を見学した。ここは日本人にとって、ポツダム宣言で忘れられない所である。短い見学の後、最後の宿泊地ベルリンの郊外に入っていった。

ベルリンはバスの運転手さんの出身地である。魚が水を得たように元気になった。途中の街では不案内のため、ナビゲーションに頼り、後の座席のFさんと相談しながら目的の場所を探すのに苦労していた。地図も持たず、ナビ頼み。時には大型車が入ってはいけない狭い道路に迷い込み、民家の軒すれすれに通って、住民があわてて首をひっこめ、はらはらしたこともあった。

ベルリンは大都会である。晴天続きだった天気がくずれて曇天に北風が吹きぬけ、人々はコートの襟を立て足早に歩いている。もう、初冬の感じだ。ドイツ人の心のよりどころ、リンデンバウム(菩提樹)の並木は丸い葉を歩道に落としてカラカラと舞っている。バキューム車のような大きなホースで吸い取って、トラックに吐き出して、清掃している。

若者はリュックを背負って、自転車で走り、軽快に歩く。携帯電話はほとんど持っていない。子供たちは人形のように可愛く、少女の肌は艶やかに輝いている。傍らのお年寄りはご夫婦で寄り添い杖を付いて歩いているが、太り気味で細い足は体重を支えきれず苦しそうである。肉食とジャガイモのせいだろうか。暗く陰鬱な寒い冬に向かってどんな生活を送るのだろうか。

ここからのガイド役はドイツ生活が長くベルリンに住んだこともあるKさんにお任せする。前もって綿密に作ってくださった資料があり頼もしい。

 

《ナチスドイツと第二次世界大戦の傷跡》

 

ベルリンでは、十九世紀のプロイセン時代の建物やトルコの古代都市を再現したベルガモン宮殿なども見て廻ったが、ナチスドイツと第二次世界大戦の軌跡がとくに強い印象となって残った。

Sバーン・グリュネバルト駅十七番線にユダヤ人の輸送基地であったことを示すパネルがあった。今は使われていないホームに立った時、次々と過去に見た映画の一シーンが浮かんできた。《アンネの日記》《シンドラーのリスト》《ビューティフルライフ》《戦場のピアニスト》など。

押し込まれて強制送還されるユダヤ人の悲しい顔が重なった。一九四一年十月から一九四五年二月までの間に百回以上の記録が書き残されている。ホームをたどって行くうちに、体が震えた。行き先はさまざまである。

〈一九四二年九月十二日、千人のユダヤ人がアウシュビッツに輸送された〉

と書かれている。最後に近づくと人数が百人、三十人と減ってゆく。

しっかり書き残しているところは、ドイツ的と云えるだろか。衝撃を受け、線路脇に佇む私たちの上を、木の葉を揺らしながら平和な風が吹き抜けって行った。

ベルリン中心部のホロコースト記念モニュメントは、四角いコンクリートの塊が沈黙の抗議をしているように立ち並んでいる。冷たい雨が降り注ぐ中、迷路のようなコンクリートブロックの間を歩いていると、戦争で犠牲になった人々の魂を揺さぶるような声が地鳴りのように聞こえたように思えた。見学できなかったが、この地下にたくさんの記念品が展示されているそうだ。

街中に壊れたまま残されたカイザー・ウイルヘルム教会は、日本の原爆ドームのようだ。第二次世界大戦末期に破壊されたそのままの姿が痛々しい。周りには観光客向けの土産物店が並ぶ。教会の建物の内部は資料館になっている。

オレンジの炎に包まれて燃えている教会を描いた一枚の水彩画が心に残った。

K夫人に教えてもらって、隣に建った新教会の中に入ってみると、心を静めてくれるような深い青のステンドグラスに囲まれた。外のかすかな光を反射した無数の四角のガラスの壁は鎮魂の唄を歌っているようだった。人々は静かにお祈りをしていた。私は深呼吸をして外に出た。

 

《ベルリンの壁》

 

第二次世界大戦後、東西の冷戦中に西ベルリンを囲っていたベルリンの壁の跡も印象深かった。

一九八九年十一月九日に壁が破壊されたが、全長百五十五キロに及ぶ壁のうち、一・三キロが壁アートとして残されている。一九九〇年に、二十一カ国百十八人のアーティストによって描かれた絵は共産主義に対する風刺画が多いようだ。大胆で見応えがある。ちょっと裏側を覗いてみると、ゴミのないドイツに珍しく廃材や放置自転車などゴミが積まれていた。   

あれからもう十八年の月日が流れた。壁が取り払われ、東ドイツの共産主義は崩れ、西ドイツの資本主義体制へと変化した。

ベルリンの壁崩壊で一つ思い出すことがある。一九九六年にくも膜下出血で急逝した姉が朝日新聞の《ひととき欄》に投稿した文、《切ないバナナへの思い》の中に、バナナにまつわる思い出話として、壁が崩れた時の歴史的瞬間のテレビ報道を見ていたら、東ドイツの女の子が空いた穴から西ベルリンに来て、まずバナナを買ったことが書いてあった。きっと自由の味がしただろう。

三百六十度の回転展望台のあるテレビ塔に登ってみると、ベルリン市街が一望できる。森や緑が多い。西ドイツ側の建物は建物の形が変化に富み自由である。旧東ドイツ側は画一的な白く四角い箱のような建物が並んでいる。

ブランデンブルグ門をくぐり、黒赤黄のドイツの三色旗がはためく国会議事堂を見学した。現在ドイツ連邦議会の会場となっている政治の中枢だ。大都会ベルリンを外から見る印象は大きい、広い、硬い

乾いた感じである。森が多いことには安らぎを感じるが。

この旅最後の晩餐は庶民的なビアホール。棚の上にはアンチークなビアジョッキーや蜀台が飾ってあり、楽しい雰囲気だ。円卓を囲み地元のビールで乾杯し、本日のお薦め料理〈シュニッツエルに目玉焼き添え〉〈鱒のような魚のムニエル〉などを食べながら、充実して、楽しかった十日間の旅の思い出を話しながら夜がふけていった。さして問題もなく、体調もよく旅を終えることが出来たのもなんかいもミーティングを重ね、現地に飛んで、交渉もしてくださったFさんに感謝している。

Kさんによるベルリン散策の特別プランはとても充実していて満足のゆくものだった。女性のためのモールでの買い物や、昼食場所もベストチョイス。高級デパート《カーデべェ》も楽しめた。Kさんに感謝。さりげなく気配りして楽しい旅を盛り上げてくれた仲間に感謝。

 

《環境問題》

 

ビールでいい気分になった仲間の円卓会議が始まった。

ドイツを旅して感じたことは、環境先進国であることである。二年前に比べると風力発電が増えている。街には、タンクのように大きな分別ゴミ箱が至る所に置かれている。飲み物の自動発売機はなく、七十%の若者が携帯電話を持って歩く、日本のような風景にも出合わない。どこのトイレットペーパも漂白なしの再生紙。ホテルには備え付けの歯ブラシ・石鹸・髭剃り・シャワーキャップ等は置いていない。シーツやタオルも要求しないと洗わない。夜の街は照明を落として暗い。街の景観を守ることも大切な環境問題だ。電線は地下に埋め、看板は垂直にはみだしていないドイツの街は美しい。

〈日本は原子力発電に頼り過ぎだ。積極的に風力発電にも取り組むべきだ。〉

〈平らなところが少ない日本の土地では風力発電も限界がある。〉

〈太陽熱利用を進めたら、どうか。〉

〈政治家の怠慢だ。もっと環境問題に取り組むべきだ。〉

〈過重包装も問題だね。〉

ビールがまわり、ほろ酔い加減の討論が熱を帯びてきた。

〈さて奥様方。女性の立場からの意見は?〉

と、水が向けられたが、とっさに言えなかった自分が恥ずかしかった。

身近に感じる地球温暖化に対して、今、自分のできることは何かを問い直してみる。花が狂い咲き、生物の生態が変わるのを観るにつけても、自動車にはなるべく乗らない。電気をこまめに消し、資源のリサイクルに努めることだろうか。外に向かって声を挙げることも必要だろう。

 

《旅を終えて》

 

高橋義人著《ドイツ人のこころ》を帰国してから読んだ。

ドイツ人の好きなものとして

一、     ライン河(とりわけローレライ)

二、     菩提樹

三、     南国イタリア

四、     クリスマス

五、    

を挙げている。

 

ドイツの風土や歴史がドイツ人の心性をいかに規定しているかを、文学や音楽 ゲーテ、ベートーベンの作品を例にしながら、ドイツの文化案内をしてくれる。情緒豊かにドイツ人の内面へと誘ってくれる。

ワイマールを訪れ、ゲーテとシラーの銅像を見ただけでは、何も分かっていなかったと思う。菩提樹の下を歩いても、さすらい人の鬱に思いは及ばなかった。緑豊かな森にこんな哲学的な深い意味があったのかと。もっと歴史や文学に触れて、旅で見たり聞いたりしたことを膨らませてゆきたいと思った。化学史の旅と観光は上手く重なって、変化に富んだ旅が出来た。これに文化史の旅が重なり合ったら、もっと味わい深いものになるだろう。

また、ドイツを訪れてみたい。今度はクリスマスの頃に。