絹のかけ橋

 

                        武山文子 

       

 昨年(一九九七年)、フランスでは日本年であった。両国の文化の交流をはかるために、フランス各地で、展示会・講演会・美術展・映画会など、多彩な催しがくり広げられていた。百済観音がルーヴル美術館に展示されるために、しっかり梱包されて海を渡る様子が、テレビで放映されていた。

 昨年の春頃、リヨン在住の友人から、

「リヨンの日本祭りで、着物ショーをやってみないか」

とのお誘いがあった。

 少し不安を感じたが、リヨンに行けると言う気持が先に立って、即座に「ハイ」と返事をした。

 数年前、東京で《モードのジャポニズム展》を見た。フランスのモードに、日本の着物や文様が、どの様な影響を与えているか、会場の美しい衣装や、テキスタイルが語りかけていた。とても心を動かされた。

 竹やツバメの日本の文様が、巧みに図案化された額入りのテキスタイルが、目に止まった。近づいてみると、リヨン織物博物館から借り出された物であることが説明されていた。

 明治の初めに、リヨンから日本にジャカード織機が入ってきて、織物の技術が画期的に進歩した話なども聞いたこともある。

 そんなこともあり、〈絹と美食の街〉リヨンに一度は行ってみたいと、ひそかに憧れていた私の願いは、思いのほか早く叶ったのである。

             

 一人ではちょっと心細いので、ツアーコンダクター兼ポーターとして夫に同行してもらった。それに、もう一人助手になってもらう春日夫人が加わり、三人旅は始まった。

 

 せっかくの旅行なので、パリ・モンテカルロ・ニース・アルルを回って行くことにした。晩秋のパリの街を散策し、モンテカルロでちょっぴりカジノを楽しみ、ニースではミロ美術館、美味しいパエリア、コート・ダジュールの美しい海岸線を楽しんだ。ニースからアルルへは鉄道で移動した。アルル駅からフォンヴィーユへとバスで移動し、秋のプロヴァンスを楽しんだ。フォンヴィーユはドーデーの『風車小屋便り』ゆかりの地である。

 

アルルからリヨンへは鉄道で向かった。

 十一月十八日午後四時、リヨン駅に降り立った三人は、現地に住む梅本夫人の出迎えを受け、山の手にある邸宅に着いた。日本茶で、ほっと一息ついた後、休む間もなく、着替えだけ済ませ、日本祭りの会場へと急いだ。

                            

 お祭りはリヨン市で最も賑わう場所、ベルクール広場の白いテント小屋の中で始まった。午後七時から、日本祭りのオープニングセレモニーが開かれることになっている。

〈祭り〉とモダンな書が正面に下がっている。番傘もある。横の台の上には、程よくカットされた松の盆栽が並べてある。盆栽は今やもうフランスでは〈ORIGAMI〉と同じように〈BONSAI〉と紹介されている。

 壁面を見ると、古い能衣装の打ち掛けと袴が、目に止まった。金・銀・赤の刺繍が美しい。テントの中はもう日本ムードで一杯である。

 正面には十メートル位の舞台が作ってある。ここで、着物ショーや、指圧の実演、琴の演奏などがくり広げられるという。

 障子や屏風で仕切られた、畳二枚ほどの楽屋もついている。ここが私の今日の仕事場である。日本人留学生や企業の奥様たちに、大和撫子に変身してもらうためのお手伝いをするのである。持ち時間一時間。助手になって貰った春日夫人と二人で、十人に着付けが終った時には汗だくになっていた。

 祭りの紺の法被を着たスタッフが、忙しくたち働いている。招待客も含めて、二百人程の人の熱気でテント内の温度も急上昇といったところ。

       

 リヨン日本センターのドヴァー神父の挨拶でセレモニーは始まった。駐仏日本公使の流暢なフランス語が心地よく耳に響くが、内容はさっぱり分からない。ドッと会場から笑いが上がったが、くやしい事に一緒に笑えない。日本語も少し期待していたのに、すべてフランス語であった。

 公使の横にいるスタイルのよいリヨン文化担当局長の、黄色いスーツ姿には、みんなの目が集中していた。

 和やかなうちに、樽酒の鏡開きで、日本酒がふるまわれ、日本料理店から出前された握り鮨はサケ・タイ・マグロもあった。お鮨を上手に食べるフランス人の箸使いはなかなかのものだ。

 皆プチケーキを頬張りながら、ワイン片手にパーティを楽しんでいる。サービスに忙しく立ち働く大和撫子たちの着物姿は華やいでみえた。民族衣装は彼女達の強い味方になってくれたようだ。

 日本語・英語・フランス語が飛びかって、国際色ゆたかな交流会だった。こんな時、私はいつも持ち前の好奇心で、人の輪の中に入ってゆくことにしている。法被を着ているスタッフのフランス人青年二人と、私は映画の話題で、意気投合した。

『SHALL WE ダンス』はすばらしかったと青年.そして『HANABI』をアナビと発音したので、最初よく分からなかったが、この映画も面白かったと、彼は日本祭りの別企画として上映された日本映画の感想を述べてくれた。

 私もすかさず、

「ジャン・レノ 大好き」

とフランスの俳優の名前をあげた。

「映画『レオン』をなんども見た」

と言うと、

「おお、バイオレンス映画なのに」

と二人は目をまるくした。青年たちは日本語を学んでいるので、日本語で話したい。私は、少しの英会話力を確かめてみたい。両方の希望を入れた日本語と英語、それに目と手の力を借りて、という具合になった。

 しかし細かい交流に言葉の壁は厚かった。私はフランス映画が大好きで、〈『ベティブルー』や『グランブルー』もこんなところが好きだった〉の〈こんなところ〉がうまく表現出来ず、もどかしかった。ともあれ、大いに盛り上がって、ハンサムな二人とスリーショットでカメラに収まった。

 夫はどこに、と振り返ると、色あざやかな絹のスカーフのフランス夫人や、日本企業の若い奥様たちに囲まれて、ニコニコ顔で談笑中。言葉はお互いに不充分でも、ハートがあれば盛り上がる。ワインでほろ酔い気分のなか、あすからの五日間に期待しながら、パーティは夜遅くに散会となったのである。

           

 今日は、いよいよ私の着物ショーの本番の日。リヨンに着いて二日目、足が地に着かないふわふわした気持ちは消えないまま、バス・電車を乗りついで会場へ急ぐ。

 会場の暖簾をくぐる。すると、オリガミコーナーではミニバスケット(桝)の折り方の講習会も始まっていた。小さな子供からおばあさんまで、一生懸命、正方形から折っている。でき上がりの作品を持ち帰る時の嬉しそうな顔が忘れられなかった。お習字のコーナーも盛会のようだった。〈クロード〉と、墨も黒々と書いた半紙を持ち、パパとニコニコ顔の少年がいた。私は思わず〈クロード君〉と呼びかけていた。

 昨夜とはうって変わって、ジャンパーやセーター姿のリヨンの人たちでテントの中は一杯だった。お祭り好きな人たちがここにもいた。

 舞台では、指圧のショーに熱い視線が集まっていた。モデルは気持よさそうに横たわっている。

 次は私の番だ。こんなにたくさんの人の前で、「うまく出来るかな」と急に不安になった。人と言う字を飲み込んだらあがらないという、いつものおまじないをやってみた。

 ショーに使う着物は、あらかじめ航空便で日本から送っておいた。和服は足袋や紐が一つ足りなくても、うまく着付けができない。小物にぬかりはないかと点検したり、シヨーの後ろで、お琴の演奏をしてくれる山辺さんの着付けをしたりするうちに、だんだんと落ち着いてきた。

 しかし、一つ問題が起きた。きょう男性のモデルにと頼んだリヨン大学の日本人留学生が、風邪を引いて来られなくなったとのことだ。急いで、会場にいるフランス人青年を代役に頼んだ。背は、それほど高くなくて、ちょうどよいのだが、長襦袢を着て貰ったら、手がニョッキッと出てしまった。黒足袋は小さすぎて入らなかった。幸い紺のソックスをはいていたので、そのまま舞台に上がって貰った。

 あらかじめ着付けの順序や着物の簡単な説明は、司会のナタリーさんに手渡してあった。足袋の説明のとき、場内から笑いがあがった。

 きょうモデルに着てもらうのは、夫の父が着ていた大島紬の着物・羽織・袴の一揃いで、男性の略礼装である。きれいな模様の長襦袢の上に、着物・角帯・袴・羽織と重ねていった。助手の春日夫人に、紐や帯を渡して貰ったので作業はスムーズに運んだ。男性の羽織は、裏に意匠があって、とてもおしゃれだ。でも、この日本的な美意識を、外国の人にどれだけ分かって貰えるだろうかと考えながら、目をむいたダルマさんを、墨絵風に描いてある羽織の裏を広げて、見てもらった。帯の間に男物の扇子を差して完成した。

 二番目に、若い女性に訪問着の着付けをした。着物は倫子で、紺にあでやかな牡丹の花柄。袋帯もきれいなグリーンに金・銀の牡丹が織り出されていた。蝶の形に変り結びを終って、背をむけると、思わず場内から拍手が沸いた。感激の一瞬であった。四メートル二十センチもある帯の長い布地が、蝶の形になって背中にとまるマジックは、外国人ならずとも不思議なできごとだったに違いない。

 

 胸のドキドキを押さえて、自分を励ましながら着付けをしていると、舞台の袖の方で、少々ブロークンだが聞きなれた声の英会話が聞こえてくる。どうも夫が話しているようだ。

 中年のフランス夫人につかまって、質問攻めにあっている気配。その様子を再生してみると、こんなふうになる。

「フランス語はしゃべれるの」

 と、マダム

「いいえ」と夫。

「私の英語わかりますか」

 とマダム。

「わかる」

 と、答えると、次々と質問が。

「何であんなにベルト(ひも)を締めるの? 全部でなんぼんあるの? あんなにしめて息ができるの?」

「さあ七本くらいかな。息はしているよ」

「今でも、この服装で街を歩いているの」

「特別な日、たとえば結婚式や成人式、お華やお茶などを行なうときに着ているよ」

「この女の人の着物はマダムが着るの、それともマドモワゼルなの」

「マドモワゼルで、帯結びはバタフライ結び」

「おお、パピヨン(蝶)。きれいね。じゃあ、マダムはどんな結び方」

 これには夫も、はたと困ってしまったようだった。

「ドラム(お太鼓)結び」

「ウムム」

 これはどう考えてみてもフランス婦人の理解の外であったようだ。

「日本人は鯨を食べてけしからん」

「アイ、ラブ、ホエールズ」

 と、マダムの質問は食べ物に移っていった。

「今では日本でもあまり食べない」

 と、夫。

 話題はグリーンピース運動にまで、発展しそうな勢いである。夫はすかさず、こう聞いていた。

「ところでマダム、あなたは植物のほかに、何か動物を食べますか」

「はい、チキンを食べます」

「アイ、ラブ、チキン」とやり返して、一件落着。

 このように楽しいやりとりも交えながら、着物ショーは終わった。モデル二人が舞台から降りて、会場の人たちにじかに着物や帯に触ってもらって交流した。私も、民間文化使節の役目が少しは果たせたことに安堵しながら、ご苦労様を言い合った。

                            

 この後、私の出番の着物ショーは日を変えて二回あった。毎回日本人留学生のモデルが変わるので、とっさの機転が要求された。やはりプロになる道はなかなか厳しいもののようだ。

 最終日には、会場から八歳くらいのフランス人のかわいい女の子にモデルになってもらって、七五三の七歳の祝い着を着てもらった。金髪・青い目には、朱色の着物がよく似合う。巾着袋の手さげを持ってもらって、でき上がった時には、場内から歓声が上がった。

 女の子の耳元でそっと、

「メ-ル(お母さん)はどこ」

と聞いてみた。

「ラ(あちら)」

と指さした方を見ると、お母さんと弟の上気した顔に合った。手招きして、舞台に上がってもらった。

 弟は、

「僕のねえちゃんが、着物を着たんだよ」

と言わんばかりに目をクリクリさせて、得意満面でかけ上がってきた。カメラをわたしてあった梅本氏に、会場から写真を撮ってもらった。微笑ましいファミリーの様子はどこの国でも同じだ。私も役を終えて大きく深呼吸をして、一緒にカメラに納まった。

 司会のナタリーさんの後ろで質問が来た。答えをフォローしてくれた梅本夫人によれば、着物の歴史などを学んでいるフランスの女子学生から鋭い質問もあったらしい。次の機会には、時代別・男女別・用途別などに分けて着物を紹介し、スライドを使ったりすればもっと効果的だということだった。私も同感である。

                         

 ショーの合間には、リヨンの街の見物もした。テント小屋のすぐ近くに織物歴史博物館があった。リヨン地方知事が住居としていた十八世紀に建てられた豪邸が、博物館になっているのだった。その日は、入場料は要らなかった。

 壁には、織物の歴史やエピソードを示す絵画が飾られ、ガラスの展示台の中には、歴史を感じさせる織物が大切そうに置かれていた。

 十七世紀から二十世紀にかけての絹織物のコレクシヨンは、とくにすばらしい。マリー アントワネットがリヨンに発注し、ヴェルサイユ宮殿の寝室を飾ったカーテンやカヴァーも展示されていた。

 別室には、精巧な木彫りがほどこされて黒光りしている、クラシックで豪華なジャカード織機が置かれていた。思わずため息が出るほど美しかった。

 リヨンは十五世紀からいまに至るまで、絹織物の産地である。幕末には日本からもカイコを輸入していたそうだ。そういえば、夫の祖父は、土佐でカイコの種を売る商売を手広くやっていた。いまでもカイコを飼っていた蚕室が残り、いろんな道具も見ることができる。

 祖父と父の着た着物や羽織・袴がフランスの男性にもよく似合った。リヨンから日本に入ってきた織機で織られた西陣の袋帯はショーで蝶結びになった。

 母の結んだ帯、友人や私が若い時着ていた着物も、リヨンに住む日本女性たちをやさしく装わせることができた。

 すべて身につけた人たちが、着物に残した香りと共に海を渡り、いま、絹の街・リヨンのテント小屋の中で蘇っているのである。美しい絹の橋がかけられた。

 このかけ橋が、日本とフランスに住む人たちの民間文化交流の始まりとなり、これからも往来が頻繁になってほしいと願っている。

 

 お茶会も二カ所で開かれた。一つは、建物のまん中にカゴのようなエレベーターのある、二百年くらい前に建った古いマンションのトゥーレ夫人宅であった。もう一つは、近代的な建物のリヨンオペラ座の地下のホールで、黒い椅子がとり囲む摺り鉢型になっていた。中央に畳が敷かれ、出席者はティ・セレモニーをじっと見守った。私は両方の場所で、お茶会に出席するお嬢さん方四人に小紋の着付けをした。

 いずれの場所にも着物はすんなりと溶け込んで、美しかった。着物は過去のものではなく、現代も未来も、ずっとずっと世界中で生き残ってほしいと思った。

 

 ハードなスケジュールをこなしながらも、美食の街リヨンの味もしっかりと楽しんだ。梅本夫人の案内で私達は早朝のマルシェに行ってみた。

 花やオリーブ・きのこ・果物・チーズ・ニワトリや兎の肉が並んでいる。食材は豊富で値段も安い。太ったおばさんが大きな袋に、たくさん野菜を買っている。対面売りの心やすさが楽しい。肉屋のおじさんは、おしゃれな白い制服を着ている。

 特にオリーブやきのこの種類の多さにはびっくりした。選ぶのに苦労する。今夜のおかずは鴨のオレンジソース煮だそうで、つけあわせにマイタケのようだが黄土色のきのこを買った。

 街角のクレープや、ブラッスリーでのパスタも気軽に味わえた。

 ハードなボランティアの着物ショーを無事終ったご褒美に、リヨンで有名なレストラン《ヴィラ・フロランティーヌ》の夕食に梅本夫妻が誘ってくださった。とても上等で、ワインも料理の味も最高だった。丘の上からの夜景もすばらしく、リッチな気分は私たちをおしゃべりにさせていた。

 だが、最後に出た、とてもスウィートなチョコレートに誰も手が出ず、横目でにらみながらテーブルに置き去りにして来てしまった。日本人の胃袋はどうも許容量では、フランス人に劣っているようだ。

 

 食材とシェフに恵まれ、高級な料理から庶民的な食べ物まで、フランス料理を思う存分堪能できる食の街リヨン。フランスのファッションを裏でささえる職人をたくさん抱え、伝統的絹織物を産む街リヨン。古代ローマの遺跡のある、古くて新しい街・リヨンはとても魅力的な姿を見せてくれた。

 日本祭りの着物ショーを企画して下さったリヨン日本人会の皆様、梅本夫妻、ショーを見て下さった多くの市民の方たちに感謝しつつ、沢山のお土産話を持って帰国した。

 思い出は、旅の写真やパンフレット・美術館のチケット・航空券・自作の水彩画・ポストカードも差し込んで、大型アルバム二冊にまとめた。 他人の旅の写真など見せられても、さほど面白くもないものだが、一味違った旅だったこともあって、

「話しを聞かせて」

「アルバムを見せて」

 と、お声がかかる。多くの友人がサポーターとして、国際交流のお役に立てばと、日本的な手づくりの小物をさし出してくださった。その方たちにも、お礼がてらに、リュックサックに重い二冊のアルバムを詰め込んで、思い出の出前をしている。リヨンで買った、青い絹のスカーフをなびかせながら。