(3)ブルックリン見物

 

二日目のブルックリン見物はプロスペクト公園に近いバス停で集合になっていた。プロスペクト公園はブルックリンの中央にあり、その入り口には南北戦争勝利を祝して立てられた凱旋門がある。

 

見物はバスで案内されると信じ込んでいたが、あたりを見回しても他の参加者が待っているようにも思えなかった。定刻になると70歳くらいの男性があらわれ、「これから徒歩と時々地下鉄を利用してブルックリンを案内する、いつもはもっと大勢だが今回はあなたたち2人だから説明しやすい」という。

 

見物案内は大通りのすぐそばの住宅街からはじまった。この地域はParkslopeとよばれ、緩やかに傾斜した土地にあるためこのような名がついた。住宅街といってもすべて3階建ての石つくりの建物でほとんどは一軒が4~6戸のアパートあるいはコンドになっている。石作りの建物は1910年ころたてられたもので、黒ずんでうす汚く見えるが、よくみると窓枠などに彫刻がしてあったり建物全体に手が凝っている。ニューヨークで専門職につく若手の住人が住んでいる。家賃は寝室が2個のアパートでも5000ドル前後というから、非常に高い年収のある人たちの町なのである。しばらく歩いたとこころで、1960年に空中衝突した飛行機の一機が墜落したという場所にきた。案内者が当時の新聞の切抜きを持ってきていて、目の前に見える家が墜落した飛行機の後ろに写っていた。

 

ブルックリンには、たとえばイタリア人町とか、グルジア人の町とかいった具合に、ethnic groupといわれる同じ言語を話す人たちの町がいくつもある。その中の一つ、Little Russiaと呼ばれる地域に立ち寄った。ロシア風のスカーフをかぶったおばあさんが路上で古着を売っていたり、食料品店に入ると店員も客もみながロシア語で話している。ロシア人(ユダヤ教)のアメリカ移住はソビエト時代にもあり、この町が膨らんだのである。イスラエルとの繋がりは、食料品店の販売品の多くがイスラエルせいであることからも分かった。子供のころ住んでいた満州ではロシア人に店で買ったチーズ、ロシア黒パンやロシア漬けと良く食べさせられたので、同じものがあるか興味があったが分からなかった。

 

マンハッタンとブルックリンには地下鉄が網の目のように発達していて、住人には自動車を持たない人が多い。このことは、スパーマーケットが発達している他の町とは店の様子がまったく異なる。スパーマーケットが多いところでは住宅街から歩いてゆけるところには店はまったくと言ってもよいほどなく必ず車が要るのに対し、車を持たない人の住む町では店は道路わきの店が増え繁盛する。だからブルックリンの町並みは日本みたいで懐かしい。

 

旅行前に読んだ案内書ではコニーアイランドは寂れてつまらないところであるから行っても仕方がないと書いてあったが、ぜひ見ておいてほしいと連れて行かれた。ローラーコースター(日本語ではジェットコースター?)が最も早くできたところで、骨組みは木材でできている。この地域は1940~50年代に栄えたところであるが、現在は地域全体をやり変え中で、古い建物が次々とこわされていた。そんなわびしい場所なのだが、案内者の話を聞いていると、看板の一つ一つにも過去の命がよみがえってくるようだ。彼はいつ取り去られるかもしれない見世物小屋などの古びた看板を一枚一枚写真に収めているという。

 

そんな話を聞いたり、またこの案内者の経験話を聞きながら歩いているうちに、この案内者がなぜブルックリンのことを良く知っているかがわかってきた。彼は大学を卒業してから中学校の教師をした後、報道記者になった。タイ人の夫人と結婚した後タイで10年をすごし、その間フリーランスライターをして、タイのビジネス情報を流した。その後ブルックリンに住み移り、そこでジャズ雑誌の編集長をつとめる傍ら、ブルックリン案内をしているのであった。ニューヨークに住んでいる日本人のジャズピアニスト、トシコ アキヨシと彼女の夫であるサキソホーン奏者のレウ タバーキンとも親しく、家を訪ねたこともあるといっていた。

 

いくつかの地域をまわり、ブルックリンから対岸にマンハッタンの良く見える公園まできたら4時近くになっていた。徒歩と地下鉄で約6時間歩き回ったことになる。

 

 

中村省一郎 12-8-2010

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