『竜馬伝』と我が家

武山高之(2010.8.10記)

 

我が家は夫婦ともに土佐の出身で、『竜馬伝』の熱心な視聴者である。『竜馬伝』をみていると、土佐の幕末には、農村出身の下士である郷士や庄屋という身分の低い人たちが活躍していた。

 

武山家も妻の実家・安岡家もともに江戸時代は農民であった。しかし、幕末土佐の特殊性からか、我が家の先祖にも、『竜馬伝』に出てくる人物と関係がある人がいた。幕末・維新の動乱は私たち庶民の直ぐ近くで進んでいた。

 

三つのエピソードを取り上げて、お話したい。

 

その1.武山の本家には、土佐藩の参政・吉田東洋の手紙が数通残っている。

高知県高岡郡日高村にある武山家の本家に、土佐勤王党に暗殺された土佐藩の参政・吉田東洋の手紙が数通残っている。山内容堂公の侍読(教授)を勤めていた儒者・松岡毅軒に宛てた物である。

 

 松岡毅軒は高知城下から西に二十キロほど離れた日下村(現・日高村)の出身であった。松岡家は十九世紀初めには郷士(下士)であり、武山家とは五百メートルほど離れた隣部落にあった。農民であった武山家(当時は竹山家)は藩主とはもちろん、藩主の側近である吉田東洋とも目通りを許される間柄ではなかったが、近所に住む郷士の松岡家とは、親密な関係にあった。おそらく武山家の先祖が、松岡家の土地の管理とか、土木工事の現場監督をしていたと思われる。

 

 松岡毅軒の名は、土佐の地方史に詳しい人にしか知られていないが、容堂の文章の師であったばかりでなく、文書係としてつねに容堂に同行していた。文章の達人だった。

 

容堂が書いた日本史に残る文章としては『大政奉還建白書』が知られている。『大政奉還建白書』は、容堂が徳川慶喜に宛てた正書と土佐藩の四人の重役によって具体案として書かれた副書からなっている。副書の原案は坂本龍馬であったことも知られている。

正書も名文である。この起稿は松岡毅軒によってなされたと思われる。ただ、つねに容堂の影の存在である毅軒のことは、たぶん『龍馬伝』には出て来ないであろう。出て来るとすれば、最後の方であろう。

 

幕末の日本史に大きな影響を残した人物の手紙が武山本家に残っていること自体に、何か歴史の面白いことが隠されているように思えた。そのため、私は、このことについて考察し、別に一文を纏めた。いま、土佐の地方史会誌に出そうと思っている。

 

ちなみに、手紙の内容は勉強会の招集と毅軒が執筆した土佐藩史の本を借用希望に関するものである。

吉田東洋は城下の南郊・長浜で小林塾を開き、後藤象二郎、板垣退助、松岡毅軒らを集めて、勉強会を開いていた。この中に、身分の低い岩崎弥太郎も入っていたという。

 

『龍馬伝』では、土佐は上士と下士の身分差別が強かったとなっているが、松岡家は18世紀中頃までは農民であったが、金を貯めて郷士株を買い、郷士になった。その後さらに、学問で藩主に取り立てられ上士になった。

竹山家も郷士株を買いたくて、蓄財していたと伝えられている。しかし、郷士株を買う前に明治維新となり、名字だけを「竹山」から「武山」に変えたと伝えられている。

ちなみに、松岡毅軒の幼少の時の師匠は宮地平三郎であった。平三郎は私の祖母の祖父であり、郷士であり、学者であった。農民である私の祖父と郷士の娘である祖母が結婚したのは、日露戦争の前であった。

 

その2.父方の祖母・竹内よねの実家は武市半平太宅の隣で、武市富さんとは明治時代を通じて、隣付き合いをしていた。

 

私の父・直之は、一宮村(いっく。現在の高知市一宮)から武山家に養子に来ている。その父方の祖母・竹内よねの実家は、土佐勤王党の首領・武市半平太の隣だったと聞いている。よねの実家は、浦戸湾の近くの吹井村(ふけい。現在の高知市仁井田)の坂本家であった。

 

私より十歳ほど歳上の従姉の話では、祖母・よねは、いつも「武市の小母さん」の話をしていたという。「武市の小母さん」とは、切腹した武市半平太の妻・富さんのことである。

よねは、明治三年生まれで、富さんは大正六年、八十八歳まで長生きしているので、付き合いも長かったであろう。富さんは半平太切腹後、他家の裁縫などを請け負って生計を立てていたが、後に政府から録をもらうようになったという。

 

おまけの話がある。よねの実家は、ライオン首相で知られる浜口雄幸の生家・五台山村(現在の高知市五台山)にも近かった。その雄幸が、「吹井の坂本には、げに美人の娘がいるのう」と言ったとか。ともに明治三年生まれ、そんなこともあったかもしれない。

 よねが、美人であったことについては、こういう話もある。よねが、嫁入りの時、大古橋で、日傘を廻した時、「一宮一村が息を飲んだ」と伝えられている。これは私の一番年上の従兄がまことしやかに語った話であり、真偽のほどはわからない。

 

その3.妻の母・安岡泰の大伯父・石田英吉は海援隊士として、坂本龍馬の下で働いていた。        

 

私の妻・文子の父は高知城下から東に四十キロほど離れた安芸郡奈半利村(現・奈半利町)の出身であり、母はその隣町の安田町の山間部の中山の伊吹家の出身である。

安芸郡は岩崎弥太郎と中岡慎太郎の出身地でもある。

 

妻の母・安岡泰の曽祖父・伊吹泰次は紀州の華岡青洲に学んだ医師であった。泰次の長男で、妻の母の大伯父にあたる伊吹周吉(後に石田英吉)も医者になるため、緒方洪庵の《適塾》に学んだ。しかし、勤王の志士と交わるうちに、志士として活躍するようになった。英吉は龍馬よりは、数歳下であった。

 

文久三年(1863年)二十四歳の時、吉村虎太郎の奈良十津川郷での天誅組挙兵にも参加した。この時は木をくり貫いて大砲を作ったそうであるが、飛ばなかったと伝えられている。英吉はオランダ語で蘭方を学んだのではなく、大砲の作り方を学んだようである。

 

虎太郎戦死の時は、再起を期すため、包囲を潜り抜け長州に逃れた。次の元治元年、禁門の変(蛤御門の変)にも参加、再び破れた後、高杉晋作の奇兵隊に属した。

 

さらに慶応二年(1866年)、坂本龍馬のもとでユニオン号の砲手長として、幕府側の門司陣地を攻撃し、後に海援隊に入っている。ここら辺りは、司馬遼太郎『竜馬がゆく』に書かれている。

 

宮地佐一郎『龍馬の手紙』(PHP文庫)に、慶應三年八月二十四日付けの龍馬が土佐藩大監察・佐々木高行に当てた手紙が収録されている。そこには、

「この度、英吉に船長になってもらったが、着る洋服がなく、気の毒である。二十両もあれば、間に合うと思うのでやって欲しい。もし、だめならば貴方の着古しでもよい」

と書かれている。

 

英吉はその後、明治元年の戊申戦争にも参加し、幕末の動乱をかいくぐって生き残った強運の人であった。武士でなく医者であり、剣術も得意でなかったことだろう。それが幸いしたかも知れない。

維新以後は、秋田・千葉・長崎・高知の県令・県知事を歴任した。いま、私は千葉市に住んでいる。千葉県庁の高層ビル展望室には、歴代知事の写真パネルが並べられており、その中に、石田英吉の写真もある。

 

まもなく、『龍馬伝』に石田英吉が出てくるかもしれないと期待しながら、観ている。