みなさま
 
古川安『喜多源逸と京都学派の形成』は大変参考になりました。
感想を纏めてみました。
 
「ドイツ化学史の旅」との関係にも触れました。伊藤さんの纏めとも重複しますが、
ご覧下さい。

 

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論文 古川安『喜多源逸と京都学派の形成』を読んで

‐平均的なアイソマーズの一員として‐

 

武山高之(2010.5.6記)

 

〔概要〕

 

「ドイツ化学史の旅」参加の一人として、この度「化学史学会」に加入した。今年の7月に、伊藤一男君から「ドイツ化学史の旅」の第一報が学会で口頭発表が予定されている。

先日、化学史学会から会報『化学史研究』が送られてきた。その中に、我々アイソマーズに関係が深い次の論文があったので、紹介するとともに、企業に就職した平均的なアイソマーズの一員としての感想を述べたい。

 

古川安 「喜多源逸と京都学派の形成」『化学史研究』37 1〕1~162010

 

この論文は、「学風はしばしば研究室の伝統となって、直弟子たち、さらに孫弟子たちに継承される」という立場で書かれており、「研究室の伝統というものは、日頃意識しなくても、まるでそれが遺伝子のごとく伝わって研究の方向性を定めていくもので」とも述べられている。

この論文には、「応用化学における京都学派」とか「喜多イズム」という言葉が出てくるが、「応用化学における京都学派」という言葉を使ったのは、次の児玉信次郎の文献が最初らしい。我々が学部を卒業してから4年後のことである。

 

児玉信次郎「喜多源逸先生」『化学』17〔6〕(1962

 

喜多の孫弟子世代にあたる私たちにも果たして、このような遺伝子が伝わっているのだろうか?

これがこの一文を書く動機であった。喜多と言えば、その門下に二人のノーベル賞学者を含む多くの逸材を輩出し、日本における有機合成化学、高分子化学、触媒化学、量子化学の関連基礎分野の発展に貢献したことが一般に強調されている。

ここでは、企業人としての一個人の立場から見て、古川論文に関心を持ったところについて述べたい。我々と同期の工業化学系4教室卒業生は約100名であるが、そのうち修士課程に進んだのは約3分の1で、博士課程に進み、学者の道を選んだのは約10分の1である。

ここでとくに企業人の立場からとことわったのは、大部分の卒業生は企業で活躍したからである。

 

この古川論文に関して、私がとくに関心を持ったのは次の点である。文末の参考文献の記述も合わせて、私の意見として纏めた。

 

1.喜多が、化学工業における欧州の模倣に飽き足らず、「模倣によらない独創的技術とそのための基礎研究の重要性」を強調したのは、今からほぼ1世紀も前のことである。日本に西欧の化学技術が導入されて、40年ほど経った頃のことであった。これが「喜多イズム」の始まりである。

喜多の思いが達成できたのは、それからまた半世紀後で、1958年(昭和33年)卒業の我々アイソマーズ時代まで待たねばならなかった。まだ、十分でないのかもしれないが、その努力は主に産業界でなされている。

2.「喜多イズム」といえば、「基礎研究の重視」だけが注目されがちであるが、

もう一つの特徴である「産業界との積極的連携」も注目される。産業界との連携は、産学協同が叫ばれている現在よりも遥かに密接であったように見受けられる。

3.「喜多イズム」は、彼が京大教授をするかたわら、兼務していた理化学研究所(以下、理研)の「理研精神」に大きく影響されていた。影響されているというよりも、ほとんど重複するものであった。

その「理研精神」を他大学に先んじて、大学の教育・研究に取り入れたのが喜多であり、「京都学派」の始まりであったとも考えられる。

また、この考えは京都大学創立時の「自主・自立」の精神とも共鳴するものであった。「理研精神」は仁科芳雄を通して、湯川秀樹、朝永振一郎らの京大基礎物理学の発展をも支えた。応用化学でも基礎物理学でも、「理研精神」の恩恵を一番享受したのは、京大であった。

4.「喜多イズム」および「理研精神」にはともに19世紀末から20世紀初めのドイツ科学技術思想が色濃く影響している。

我々アイソマーズの数人が追い求めてきた「ドイツ化学史の旅」もその点からも意義あるものと考えられる。

5.「理研精神」は、昭和30年代以降のわが国の大学教育・研究および企業研究の標準的な考えとなった。私が勤めていた東レもその例外ではなかった。

  日本の技術大国的繁栄は「理研精神」に負うところが多いともいえる。

 

〔各論〕

 

以下、古川論文に、文末の参考書を参考にしながら、武山の意見を述べたい。

 

古川論文の概要と武山の意見

(以下、太字は古川論文からの概要。細字は武山の意見である)

 

1.応用化学における喜多イズム(京都学派)の狙ったものは?

 

応用化学において、喜多が狙ったものは、古川の論文から次の3つに纏められる。

 

ⅰ.福井謙一のいう「類い稀なる自由な学風」

○ 物理学などの他分野と交流する柔軟性

○ 工学部工業化学科と理学部化学科の授業交流と理学部卒の教官の採用

○ 自由に討議する雑誌会の楽しい雰囲気

ⅱ.基礎重視の応用化学

  ○ 実験とともに理論を重視

○ 工業化学科第9講座に物理学者・荒木源太郎を教授として招聘し、量子力学の講座を開く

ⅲ.理研の唱える「科学主義工業」に同調

 ○ 基礎からパイロット・プラントまで

○ 産業界との積極的な連携

 

この思想はほとんど「理研精神」と重複する。喜多が如何に理研の影響を受けていたかが、伺える。

 

ところで、私は高知の田舎出身で、京大の工業化学科に入学した時には、喜多源逸という名も、応用化学における「京都学派的」なものも全く知らなかった。その後、昭和314月から2年間を学部専門課程で過ごしたが、「大学の教育というものは、何処でもこんなものではないか」と思っていた。

現在では、応用化学でも基礎を重視し、工学部・理学部だけでなく、大学間の研究者の交流も盛んで、専門領域をまたがる学際領域の研究や産学共同研究などが当たり前になっている。「喜多イズム」の特徴と考えられてきたことが、自然になっている。

「喜多イズム」を考えるには、約1世紀前に喜多が研究者の仲間に入った頃に遡って、考えてみる必要があろう。

 

2.喜多が東京帝大に学んだ頃

‐先進国模倣の応用化学教育への不満‐ 

 

喜多が東大応用化学科に入学したのは1903年(明治36年)で、1906年(明治39年)に卒業した。その後、大学院生として残り、1907年(明治40年)に講師、翌1908年(明治41年)に助教授となり、研究者生活をスタートした。

 最初の帝国大学(以下、帝大)である東大の化学科は、1885年(明治18年)に化学科と応用化学科に分離された。化学科は純正化学を研究の対象として基礎を重んじたのに対して、応用化学は西欧の先進技術の導入に奔走しており、基礎研究には重きを置かなかった。

喜多が東大に入学した当時は、帝大は東京と京都にしかなかった。京大設立は喜多が東大に入学する6年前の1897年(明治30年)であった。新しく出来た京都帝大理工科大学の組織にも、純正化学科と応用化学科に分かれていた。

 

現在では、理学部化学科と工学部応用化学の差があまりなくなっている。ともに、理論も応用も学んでいるが、そのウエイトの置き方が、少し違う程度ではなかろうか。現に、日本人ノーベル化学賞受賞者5人のうち、4人が工学部出身である。

 

 この応用化学における「基礎軽視」の風潮を問題視し、喜多は1914年(大正3年)に「応用化学者であっても基礎化学者として一人前に研究できる人材を育成すべきである」と主張する論文を出している。この辺りが「喜多イズム」の出発点となった。

 

喜多が、化学工業における西欧の模倣に飽き足らず、「模倣によらない独創的技術、とそのための基礎研究の重要性」を強調したのは、今からほぼ1世紀前である。日本に西欧の化学技術が導入されて、40年ほど経った頃のことであった。

 この思いは、1958年(昭和33年)に我々が企業に就職した時に持った思いとなんら変わりがないのに、感慨を覚える。

喜多の思いが達成できたのは、喜多の時代からまた半世紀後で、我々アイソマーズ時代まで待たねばならなかった。その間には戦争の時代があったとはいえ、長い時間が必要だったことに改めて驚かされる。

 

3.「喜多イズム」は、欧米留学と「理研精神」により強固になり、京大建学精神とも共鳴

 

喜多の考えをより確固たるものにしたのは、1918年(大正7年)の欧米留学と1922年(大正11年)の理研主任研究員兼務の発令であった。

当初、喜多はドイツへの留学を希望していたと思われるが、1918年はドイツが第一次世界大戦に敗戦した年であり、留学先をアメリカとフランスとした。アメリカではアーサー・ノイズに師事した。ノイズは若き日にライプチッヒ大学でウイルヘルム・オストワルドに学んでいる。フランスではパストール研究所に学んだ。

喜多は留学帰国後の1921年(大正10年)に京大教授に任命された。その後、兼務を命ぜられた理研は、研究の自由な気風と基礎研究を重視し、かつ「科学主義工業」を唱えたことで知られている。その後の日本の物理、化学の発展に大きな影響を残した。

 

理研における喜多の先輩化学者には、池田菊苗、鈴木梅太郎、真島利行がいた。また、後世に大きな影響を残した三代目所長には大河内正敏がいた。いずれもドイツ留学を経験し、研究の自由な発想を重んじ、基礎研究を重要視していた。

一方、喜多の京大での活躍は、京大建学思想の「自主と自由」とも共鳴した。

当時は、西田幾多郎らの「哲学における京都学派」も先行していた。

 

4.「喜多イズム」および「理研精神」と「ドイツ化学史の旅」

喜多の師や先輩には、リービッヒの孫弟子に当たるウイルヘルム・オストワルドに学んだ化学者が二人いる。オストワルドは触媒化学・物理化学でよく知られたノーベル賞受賞者である。

一人は、喜多が米国留学のMITで教えを受けたアーサー・ノイズであり、ノイズは若き日にドイツのライプチッヒ大学でオストワルドに学んで、米国に新しい物理化学を導入している。

もう一人は、1917年(大正六年)理研創立時に、化学部長であった池田菊苗(グルタミン酸の発見者、味の素の工業化)である。彼も1901年(明治34年)にライプチッヒ大学に留学し、オストワルドに学んだ。

1921年(大正10年)に大河内正敏が3代目の理研所長に就任した時に、主任研究員制度を設けた。その時に、喜多とともに主任研究員となった先輩化学者には、池田のほかに、鈴木梅太郎(オリザニン・ビタミンB1の発見者)、真島利行(ウルシオールの発見者)もいた。

鈴木はドイツに留学して、エミール・フィッシャーのもとに学んだ。エミール・フィッシャーはリービッヒの弟子ケクレ、孫弟子アドルフ・フォン・バイヤーに繋がるリービッヒ一門の一人であり、有機化学でよく知られたノーベル賞受賞者である。

真島もドイツに留学し、リヒャルト・ヴィルシュテッターのもとに学んだ。ヴィルシュテッターもアドルフ・フォン・バイヤーの弟子でノーベル賞受賞者である。

 喜多が影響を受けた師や先輩には、我々が「ドイツ化学史の旅」で追い求めてきたリービッヒ一派の流れを汲むノイズ、池田、鈴木、真島がいたことになる。池田より前に、リービッヒ一派に留学した人には長井長義がいた。彼は、リービッヒの弟子ホフマンに学び、日本の薬学の祖となった。

 

 初期の理研では、喜多の先輩に当たる物理学者として、大河内のほか、長岡半太郎、本多光太郎、寺田寅彦がいたが、いずれもドイツに留学している。

長岡半太郎はライプチッヒ大でオーストリア人のルートヴィッヒ・ボルツマンに学んでいる。本多光太郎はゲッチンゲン大に、寺田寅彦はベルリン大に学んでいる。

19世紀末から20世紀初めの留学先は、化学も物理もドイツが主流であった。

 

理研での大河内所長に関する一つの逸話をあげておこう。

大河内は所員たちにいつも、

「物理が化学を、化学が物理をやってもいっこうにかまいません。研究テーマは自由です。」

と言っていたという。(『科学者たちの自由な楽園』より)

ここで思い出されるのは、「ドイツ化学史の旅」でハイデルベルクの本町通りでであった化学者ブンゼンのことである。その銅像の向かいの壁にある顕彰パネルに書かれた「物理学者キルヒホッフと共同で開いた分光学の逸話」である。大河内も喜多も19世紀半ばのこの逸話はよく知っていたことだろう。

 

喜多のドイツ重要視の思想は、昭和初期には少なくなっていた外国人教師の招聘に現われている。喜多は工業化学科にドイツからカール・ラウエルを招いている。京大工業化学系でのドイツ語重視の教育は我々の時代まで続いた。

 

我々が学んだ化学の原点を19世紀のドイツにおいた「ドイツ化学史の旅」も的を射たものであると思われる。

 

5.喜多が京都大学に残したもの

 ‐門下生と学派の拡大、日本の応用化学全体への影響‐

 

喜多は京大で多くの門下生を育てるとともに、応用化学の研究範囲を広げていった。

まず、喜多門下生として、名が挙げた錚々たる化学者で、我々が講義を受けた先生方を挙げると、次のようである。

 

(工業化学科) 教授:小田良平、宍戸圭一、古川淳一、船阪渡

助教授:野崎一、鶴田禎ニ

(繊維化学)教授:桜田一郎、堀尾正雄、岡村誠三

(燃料化学)教授:児玉信次郎、福井謙一、新宮春男

 

この後に続く化学者を含めて、喜多一門の中からは、ノーベル賞受賞者(福井、野依)、文化勲章受賞者(桜田)、文化功労者(堀尾)、日本学士院恩賜賞(岡村、熊田誠)、日本学士院賞(野崎)、歴代の日本化学会会長(桜田、児玉、堀尾、古川、福井、鶴田)を輩出した。

 

喜多は門下生を育てるに当たって、彼らを理研に送りこみ、その研究費を活用した。桜田、児玉、小田、宍戸、新宮は若き日に理研の研究生を経験している。これも成功の一因になっている。

 

喜多が亡き後に京都大学に残した組織として、工業化学科のほかに、燃料化学科、繊維化学科、化学機械科を増設し、研究範囲を拡大してことがある。

これらは、戦後における日本の高分子化学、触媒化学、量子化学といった基礎分野の開拓に繋がっていった。

 

喜多が残した京都学派や喜多イズムの考え方は、昭和40年代以降は日本の応用化学の標準的な姿となったようである。京都学派的なものは、昭和初期から昭和30年代までの限られた時期の現象だったかもしれない。

 

6.私が学んだ京大工業化学科

 ‐後から考えると、あれが喜多イズムだったのか‐

 

以下、私自身の思い出を述べる。我々が受けたどの講義にも、基礎を学ぶのに重要な推薦図書がたくさん紹介されるのが常だった。夜中まで、それを読む楽しみがあった。私が持っているクールソン『化学結合論』の本は百万遍の古本屋で買ったものであるが、元の持ち主は山下晋三先生である。

 

後に、会社で意外に役立ったのは、試験前に一夜漬けで勉強した「工業化学概論」であった。また、化学機械の講義も役に立つことが多かった。

「製図の宿題で、君! このボルトはこちらの出っ張りに引っかかって入らない」

と指摘されたことや、試験の答えで、

「桁が違うと0点になるが、3桁目が少々違っていても点はやる」

と言われたことが思い出される。

この二つの授業を受けたか否かは、理学部卒との大きな違いであった。

 

一番難しかった講義は、選択科目の真野助教授の「量子力学」であった。工業化学からの受講生は少なく、理学部からの受講生が多かったと思う。試験の後で、真野助教授から呼び出しを受けたことがあった。

「君は、合格はしているが、可です。単位は要りますか? 就職で都合が悪いのではないですか?」

と聞かれたことがある。卒業のための単位数はすでに足りていたが、

「折角、難しい試験を受けたので、記念に単位を下さい」

と言った思い出がある。いかにも、自由な雰囲気であった。

当時は難しかった量子力学、統計力学、熱力学も今では放送大学で分かりやすく講義されている。退職後も難しい学問に再チャレンジしようかなという気分にさせるのも、工業化学科で受けて講義の効果かも知れない。

 

京大工業化学の授業の特徴はドイツ語テキストを使うものが多かった。これは、苦手であった。また、昭和40年代以降は、ドイツ語の文献が少なくなった。 

 

卒業実験は工業化学科第6講座の田村幹夫教授の指導を受けた。与えられたテーマは高分子溶液の粘弾性論の一つであるワイゼンベルグ効果であった。

実際の指導は倉田道夫助教授と博士課程の小高忠男さんだった。

田村教授は京大理学部出身で物理化学を担当されていた。倉田助教授は東工大出身で高分子溶液論の大家であった。小高さんは高分子物性論で後に阪大教授になられた。

田村教授も倉田助教授も喜多門下ではなかったが、その教育・研究方針は京都学派の影響を残している雰囲気であった。

私は学部4回生に過ぎなかったが、物性論研究会や高分子懇話会の会合に出席させてもらっていた。このような討論会には、繊維化学科(小野木重治、山川裕己ら)、理学部物理教室(山本三三三、中條利一郎ら)、工業化学の他の教室(古川淳二ら)からも、錚々たるメンバーが参加し、和やかに激論を交わしていた。このような雰囲気に接しただけでも勉強になった。

4回生の私も発表させられたことがあるが、激しい質問にたじたじとしたことを覚えている。物理学者とも身近に接することができた。

また、小高さんには雑誌会・輪講会の個人指導を受け、 その後の東レでの研究者人生でどんな難問に遭遇しても、解決の糸口も見出す能力をつけてもらった。このような輪講会や討論会への参加は、卒業後2、3年は、大津の東レ研究所に勤めていた時も続いた。大学も会社も自由な時代だった。

当時は、

「第6講座で指導を受けたような教育と研究姿勢は、どこの大学でも同じである」

と思っていたが、これには京大の特徴があるのだということを知ったのは、東レに入って、他の大学出の仲間たちと接するようになってからである。

第6講座で学んだことで、その後の新製品や新工程の開発に直接役に立ったものは多くはない。

しかし、新しい製品や方法の開発で行き詰ったときに、熟慮する習慣と忍耐を持って諦めない姿勢を持ちえたことは、京大で学んだ成果であったのであろう。

 

7.東レでの経験

‐昭和30年代には、東レでも「理研精神」や「科学主義工業」はごく当たり前のことになっていた‐

 

 私は昭和333月に工業化学を学部で卒業し、東レに入社した。最初に配属されたのは中央研究所で、繊維の応用研究に携わった。その時の所長は星野孝平だった。星野は「日本でのナイロン6の研究開発者」で知られていた。

彼はいつも運動靴で研究室を回っていた。背が低い彼が研究室に音もなく入ってくるので、気がつかずに驚いたものであった。我々が実験をしていると満足げに、

「何か新しいことが見つかったか」

と問いかけた。ただ、研究報告を書いていると、

「そういうことは寮に帰ってやりたまえ。会社では実験をやりたまえ」

と言うのが、常であった。また、

「研究者は、研究者は囲碁・将棋・麻雀・ゴルフなど市井の徒の遊びはするべきでない」

とも言っていた。もちろん、若い所員はこの教えには従わなかったが。

 

これは、大河内正敏が理研で、

「本は家でも読める。研究室で読むな。実験設備があるのだから、実験をやりなさい」

と言って「実験至上主義」を唱えていたことや、真島利行が、

「理科の学生はカフェに出入りしてはいけない」

と言ったことにも通じる。星野の経歴をみると、東大理学部化学科を卒業した後、東レに入社するまで、半年あまり理研に在籍している。「理研精神」は、京大工業化学だけでなく、東レにも伝わっていたのかもしれない。

 

 ナイロン6を取り上げの端緒になったので、小田良平からのI.G.社特許の短い紹介だったと聞く。シクロヘキサノンオキシムからε-カプロラクタムを得るにはベックマン転移が使われる。ベックマンはヘルマン・コルベの弟子である。コルベは「ドイツ化学史の旅」でおなじみのヴェーラーとブンゼンに学んだ人である。

 

昭和30年に設立された東レ中央研究所には、X線結晶解析や電子顕微鏡などの物理測定装置は一通り揃っており、レーヨン・ナイロン・ポリエステルの高強度化の研究開発に威力を発揮していた。昭和の初め、理研で大河内が唱えていた「科学主義工業」は、昭和30年ころの東レでも、ごく一般的なものになっていた。ただ、これらの研究は、あくまでも欧米で先行していた製品のっ改質改良の範囲内であった。

 

世界の先端を行く新製品が出来るようになったのは、昭和40年代になってからである。喜多が欧米からの導入に満足せずに、新しい応用化学を提案してから実に半世紀あとのことである。

その頃の研究部門を率いていた伊藤昌壽は「他所の真似をするな」と言うことが口癖であった。

伊藤は京大農学部の出身で、ナイロン6の原料であるε‐カプロラクタムの光合成法を研究し、工業化したことで知られている。

伊藤はまた、与えられたメインテーマのほかのアングラ研究をすることに対して、大らかな立場をとっていた。

そのアングラ研究の中には、のちに東レを支える大きな事業に成長した「人工スエード」があった。

現在の東レで、環境問題、地球温暖化問題で重要な事業になっている炭素繊維複合材料と逆浸透膜も、この頃に始まった研究である。逆浸透膜もアングラ研究から始まっている。

 

「理研精神」の一つである物理と化学の境界を超えた共同研究は、今では、さらに広い学際研究として、化学と医学や分子生物学まで含めた学際研究が当たり前の時代を迎えるようになった。

これらの研究開発のほとんどが、多人数のプロジェクを組んで進められてきたが、メンバーは出身大学も学部も専門も異なった混成チームである。学閥も存在しない状態になっていた。

 

今から振り返ると星野や伊藤の考え方は、「理研精神」の影響を受けたものだったともいえそうだ。

「理研精神」や「喜多イズム」は、「京都学派」として発展しただけでなく、日本の大学・企業の標準的考え方となっていったのであろう。

 

(参考文献)

宮田親平『科学者たちの自由な楽園』(1983、文芸春秋)

高分子 47 増刊『日本の高分子科学技術史』(1998)

The Liebig-Museum in Giessen1996

米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺‐福井謙一博士と京都大学の自由な学風』(1999、化学同人)