200.

西 村 三千男 記

連載「余談・ドイツ化学史の旅」

 

第19回 ドイツ日本館の店じまい

 

 今回の旅でデュッセルドルフの「ドイツ日本館」閉店を確認した。今年の3月頃、旧友

から「閉めるらしい」という噂話を聞いてはいたが、ネット検索しても閉店のニュースは

ヒットしなかった。過日、インマーマン通りを散策の途中で立ち寄ってみた。建物の外観

はレストラン閉店時のままで、貼り紙で貸しオフィスのテナント募集をしていた。

 

ドイツ日本館は、元駐在員やデュッセルドルフへ何度か旅行した人達にはお馴染みの店

であった。岸信介元首相の肝煎りで、東京オリンピックの1964年にオープンした格調

高い本格的レストランであった。単に日本料理を提供するだけでなく、日本文化の紹介、

日独友好親善の場にするコンセプトがあった。私がデュッセルドルフ駐在員に赴任したの

はその翌年であった。お値段は相応に高かったが、社用でも、私用でも、時々ここで食事

をしていた。ドイツのレストランとして経営していた。予約の電話を入れると「ドイチェ

ニッポンカン・ゲーエムベーハー、グーテンターク」がお決まりの応答であった。店内に

一歩入れば高級感あふれる和風内装、BG音楽は箏曲が流れ、本格的な和食メニュー、和

服を着た若くて美形の仲居さん達、行き届いたサービスがあった。デュッセルドルフ以外

の都市に勤務する駐在員からは羨望の的になっていた。オープニングの詳しい事情は知ら

ないけれど、伝説のような話を幾つか聞いていた。

l         発起人は当時の稲山嘉寛経団連会長など経済界トップ

l         デュッセルドルフに進出している総合商社、邦銀、物流、鐵鋼、造船など

日本を代表する各社が株主として出資

l         支配人は岸元首相の秘書

l         内装は柱、天井、畳、フスマ、壁(京聚楽)などの建材を日本から積み出し、

施工には大工2名を派遣、はっぴ姿の日本大工の仕事ぶりが話題になった

l         柳橋の柳光亭が経営と運営に係わっている

l         ウエイトレス達は大学卒で美人揃い、志望者が多くて高い競争倍率から選抜された、

才色兼備の良家のお嬢さんが多い

 

寿司(B1)と天ぷら(1F)はスタンドカウンターを設置していた。腕自慢の職人を

柳光亭が派遣した。寿司職人Iさんは特に社交的で人気があった。後日譚であるが、後年

独立してデュッセルドルフ市内に自前の寿司割烹を開業した。その奮闘記が当時の月刊文

藝春秋の記事になった。

 

そんな生い立ちの「ドイツ日本館」も、時世時節の流れの中で次第に経営が変質劣化し

ていった。帰国後20年経った1988年頃には店の高級感はかなり喪失していた。理由

は知らない。現地で勤務する会社の後輩から日本料理に誘われる場合も「ドイツ日本館」

以外の店を選ぶようになった。旧知のドイツ人を日本料理に招待する場合も「ドイツ日本

館」では不安になってきた。21世紀になって一層頻繁にデュッセルドルフを訪れたので

あるが、「ドイツ日本館」の栄光の歴史にも終焉が来るであろうことは、10年くらい前

から予感していた。

 

(以下次回)