5.バーボンの歴史

 

バーボンの歴史を知ることはアメリカの歴史の側面を知ることであり面白い。バーボンの名はフランスのブルボン王家のブルボンを英語読みしたものである。

 

1786年に現在のケンタッキイー北部の広大な地域はブルボン郡となずけられたが、その当時はヴアージニア州の一部であった。1792に、ヴアージニア州から切り離されケンタッキイー州となった。この地域には、パリ、ベルサイユなどとフランスに関係した名前が多いが、これはアメリカが独立戦争(1775-1783、注)に勝ったのはフランス(Louis XVIの時代、1757-1793)の援助があったためで、その感謝をこめて多くのフランスの地名が取り入れられたのであった。

 

なぜケンタッキイーでバーボン製造が盛んになったかを知るためには、バーボン以外の酒もふくめて、アメリカウイスキーの歴史に触れる必要がある。

 

アメリカに移民した多くの入植者は英国、とくにアイルランド、スコットァンド、からと、それにドイツからである。これらの移民の中には、アイリシュウィスキー、スコッチウイスキーで働いていた人も多かった。したがってアメリカに入植するとすぐにウイスキーの生産をはじめた。アメリカではトーモロコシのほうが麦よりも多く生産できたので、ヨーロッパのウイスキーと同じ方法でウイスキーをつくったが、原料は大麦でなくトーモロコシを主に用いた。

 

アメリカ独立戦争(1775-1783)の時代までには、ピッツバーグ周辺にウイスキーメーカが集まり、各地に送り出したのである。ピッツバーグはオハイオにも近く、トーモロコシが安くふんだんに手に入る。一方、トーモロコシの生産地では、トーモロコシのまま東海岸地方まで運んで売るには輸送費がかかり儲からない。そこで、値段を高くし運搬の費用を少なくする手段として、ウイスキーは重要な役割を果たした。

 

独立以前は、しかし、英国政府に多額の税金を払わなくてはならなかったので、ウイスキー業者はアメリカの独立運動に熱狂的な支持をした。ところが独立戦争が終わり、ジョージワシントン政府が確立(1783)されると、独立戦争のための借金返済のため、ウイスキー業者に多額の税金をかけてきたのである。このため、ピッツバーグのウイスキー業者は反乱を起こし(1794)、その鎮圧のためジョージワシントンみずから軍隊を率いてピッツバーグまでやってきて、反乱を起こしたウイスキー業者たちを捕らえて罪を課したのであった。

 

そのため、ピッツバーグのウイスキー生産業者はまったく消えてしまった。彼らの多くはウイスキーの道具を馬車にのせ、3~500マイル南のケンタッキイーやテネシーの各地に移ってしまった。当時はケンタッキイーとテネシー地方は開拓の前線で政府の手が届かなかったのである。多くはこれらの州の東側を走るアパラチア山脈の中に隠れてしまった(密造酒の歴史の始まり)。

 

この当時、ケンタッキイーとテネシーにウイスキー業者たちが住み着いた理由はもうひとつある。それは水質であった。前にも記したように、ケンタッキイーの土地は割れ目の多い石灰岩で出来ていて水をフィルターするので鉄分がなく、井戸水や湧き水はもちろん、川の水でもウイスキー作りに適しているのである。

 

ケンタッキイーで現在生産している会社は12軒ある。

Four Roses Distillery

Buffalotrace Distillery

Mclain and Kyne Distillery Limited

The Old Pogue Distillery

Jim Beam Brands      (  (Jim Beam)

Old Rip VanWinkle Distillery

Heaven Hill Distilleries

Labrot and Graham Distillery  (((Woodford Reserve)Wd

Kentucky Bourbon Distillers, Ltd.

The Wild Turkey Distillery (   (Wild Turkey)

Maker's Mark Distillery

A. Smith Bowman Distillery, Inc

 

これらの会社の創業はほぼ1790~1820年で、おのおの当時の会社名は今日に至るまで何度か変更されているが、場所は変わっていない。その理由は、2つある、つまり(1)川、泉などの水源に近いこと、(2)出荷の交通の便がありこと。1820年代といえばケンタッキイーに満足な道路はほとんどなかった。だから、水源があって交通の便があるところといえば、蒸気船が通れる所となる。ケンタッキイー川はこれらの条件を満たした。この川はレキシントンとルイビルの丁度中央を南北にながれている。いくつかのバーボン製造業者はこの川の近くにある。すでに書いたように、このあたりは緩やかな丘陵地帯ではあるが、ケンタッキイ川は深さ100くらいの谷間をながれている。これは明らかに川が浸食を起こして谷が深くなっていったためである。

 

生産されたバーボンは樽に詰めたまま、蒸気船あるいは陸路でオハイオ川まで運ばれ、そこから水路でミシシッピイ方面とピッツバーグ方面に出荷された。

 

その後第一次大戦が起こるまでの6~70年間これらのバーボン会社は生産を伸ばしたが、1919年の禁酒法はひどい打撃を与えた。しかし、バーボン会社見学で聞いた話によると、1919までに樽につめて熟成のために倉庫にいれてあったバーボンは禁酒時代にも売ることができたというのである。その理由は、医者の処方箋があれば、バーボンを買うことが許された。したがって、1933年に禁酒法が解かれるまでは、その売り上げで細々ながら生き延びたという。

 

しかし、禁酒法が解かれても多くのバーボン会社は立ち上がってこなかった。その理由は、禁酒法時代に人々の趣向が変わってしまい、バーボンの人気がなくなってしまった。

 

第二次大戦後はビールに人気がでて、バーボン会社の苦難は続いた。その間も現在のバーボン製造者は少量ながら生産を続け、輸出も増やしていった。転機は1990年代にやってきた。この時代に多くの業者はスコッチウイスキーの販売量と販売ルートを分析し、高級なバーボンを造るようになった。

 

現在アメリカウイスキーの大手の製造者はケンタッキイーのジムビームズとテネシイのジャックダニエルであり、市場の80%を占める。他の無数ともいえるウイスキー業者は残りを分け合っているのだが、その中の一番大きいのでも5%に満たないから、非常に零細なバーボン製造者が多数あるということだ。しかしこれらの零細バーボン製造者は非常に大きな誇りをもってやっている。というのは、零細なるがゆえに非常に手が行き届いて高級なバーボンが造れるという。

 

筆者がアメリカに来た約40年まえに、ジャックダニエルとかワイルドターキーバーボンの味がよいことを認識したが、値段は一番高いほうで、他にうんと安いのがいっぱいあった。現在は、安いのがほとんどなくなり、当時高級だったジャックダニエルとかワイルドターキーバーボンもあるが、同じ名のブランドでもレッテルの色を変えたり熟成時間の長くしたことを強調した銘柄と、単一の樽から出してブレンドしていないバーボンが、高価で販売されているのが目立つ。

 

これらの高級バーボンは、最高級のスコッチあるいは高級コニャックに比べれば(アメリカでは輸入税のかからないせいもあり)値段はかなり安いが、味の洗練さと馥郁たる香りはひけをとらない。

 

この先、10年~20年後には、バーボン熟成期間が現在の10年が最高から10年~20年というものが出来てさらに高級化するであろう。

 

 

 

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フランスがアメリカの独立を助けた魂胆は、フランスは強力な英国の軍力を攻撃する絶好の機会とみたためである。フランスは独立宣言をしていたアメリカと1778年に同盟条約を結び、ベンジャミンフランクリンに大量の兵器と火薬を送り、英国への戦闘をを開始し、オランダとスペインがフランスに味方した。戦いはヨーロッパと植民地の各地で広げられた。この英国との戦争は1882年にフランスの勝ちときまり、1883年のパリ条約で戦争の終結となった。しかし、この戦争でフランスが得たものはほとんどなく、出費だけは莫大な損失となったため、国民からの税率が大幅に上げられ、フランス革命の起因の一つとなった。

 

 

11-3-2010

中村省一郎

 

 

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