日本の留学生たちが学んだドイツの化学

‐「ドイツ化学史の旅」および政治体制の視点から‐

 

武山高之(2010.7.6記)

 

ドイツの政治体制区分 1)~2)と科学

 

リービッヒの時代から第二次世界大戦前まで、ドイツの政治体制は、ドイツ連邦、ドイツ帝国、ワイマール共和国、ナチスドイツと代っていった。その政治体制と科学技術の取り組み方は、深く関連している。

この観点から、日本が学んできたドイツの化学とアイソマーズの「ドイツ化学史の旅」について、纏めてみた。

 

ドイツ連邦の時代、19世紀初めのドイツは後進国であった。そこにリービッヒのような優れた化学者が現われ、周辺の国からも注目されるようになった。日本はまだ鎖国の時代であったが、ヨーロッパの周辺国、とくにイギリスからは留学生が押しかけた。初期の段階でのイギリス人留学生のなかには、トーマス・アンダーソンやパーキンがいる。その流れからは、20世紀前半に5人のイギリス人ノーベル賞受賞者が生まれている。

ドイツ帝国時代は強力な国家戦略により、ドイツは学問・科学大国になり、日本からも多くの留学生がドイツに向かった。日本の明治時代にあたり、大学では東京帝国大学の時代であった。

第一次世界大戦敗戦後のドイツは政治的・経済的に混乱していたが、学問上の優位性が残っており、戦争が終ると再び日本から留学生がドイツに向かうことになった。この中には、京都帝国大学喜多源逸門下の児玉信次郎と櫻田一郎も含まれていた。

 

我々の「ドイツ化学史の旅」では、ギーセン・ハイデルベルク・ミュンヘン・ダルムシュタット・ゲッチンゲンの大学を訪れた。ドイツは国土・人口ともに、日本より僅かに少ない国である。それにもかかわらず、19世紀にこのような多くの都市で学問が栄えたこと自体、注目されることである。

多くの都市で学問が栄えたことは、我々の「ドイツ化学史の旅」を多彩なものにしてくれた。結果的には、ドイツ各地に化学の足跡を訪ねながら、観光や音楽も楽しめた。

 

ドイツ連邦時代(1815年~71年)(文化12年~明治4年) 3)~7) 13)

 

リービッヒ、ヴェーラー、ブンゼンらの化学者が活躍した時代である。

 

私たちの「ドイツ化学史の旅」では、第1回ではギーセンとミュンヘンにリービッヒを訪ね、ハイデルベルクにブンゼンを訪ねた。第2回ではゲッチンゲンにヴェーラーを尋ねた。第3回では、もう一度、リービッヒのミュンヘンを訪ねた。

山岡望『化学史談』でも、リービッヒとブンゼンはとくにこの時代の重要な2人として、取り上げられている。

 

 この時代の科学研究を次の時代と比較すると、個人の学問的インスピレーションによる個人芸が支配していたという。牧歌的、家族的な雰囲気の研究だったとも思える。

 

山岡望の『ギーセンの化学教室』にも書かれているように、「実験に明け実験に暮れる」毎日を送っていたが、夕食だけはリービッヒを囲んで賑やかに皆で集い、食後は揃って散歩に出かける家庭的な雰囲気があったという。リービッヒの影響は、分析化学・有機化学に留まらず、農芸化学・動物化学(のちの生理化学)へと学際的発展のもとになった。

 

 ハイデルベルクのブンゼンについても、山岡望は『ブンゼンの八十八年』では、ブンゼンは学生の面倒見が良かったことが書かれている。学生たちの新しい発見については、自分のことのように喜んだとも書かれている。学問上の問題になると、ブンゼンは学生とも徹底的に議論したと言われている。この議論は分野を超えて、物理学者キルヒホッフとの間でも行われ、分光学の発展に貢献した。この成果は1814年にフラウンホーファーが系統的に研究した太陽光線スペクトル中の暗線の解明に役立ち、後の量子力学教科書の最初の記載に繋がっている。

 

 この時代は、日本では幕末で鎖国時代であり、ヨーロッパへの留学生は派遣されていない。リービッヒらの成果は、おそらくお雇い外人を通じて、明治初期の大学に伝えられたのではないだろうか。

 

 日本人の若者が最初にリービッヒ一族の化学者に逢ったのは、1863年(文久3年)である。山岡望『ギーセンの化学教室』によれば、リービッヒの弟子のイギリス人ウィリアムソンに伊藤博文、井上馨ら5人が会っている。

 

第一次世界大戦前のドイツ帝国時代(1871年~1914年)(明治4年~大正3年) 1) 8) 13)

 

帝政期のドイツの社会諸相として、坂井は「軍国主義の国」、「学問の国」、「テクノクラートの国」を挙げている。「軍国主義の国」は別として、宰相ビスマルクのもとに学問と技術が栄えたのは注目すべきである。

ここで重要な働きをした、ヴェルヘルム・フォン・フンボルトとフリードリヒ・アルトホーフという二人の人物についてまず述べておきたい。

 

ヴェルヘルム・フォン・フンボルトは今から200年ほど前の人で、有名な地理学者のアレクサンダー・フォン・フンボルトの兄である。1810年にベルリン大学が創設された時、その基本理念として、「フンボルト理念」を持ち込んだことで有名である。

「フンボルト理念」は大学における「研究中心主義」であるといわれている。この「研究中心主義」の理念が、19世紀後半のドイツの大学における研究を進める大きな力になった。

ところが、この大学における「研究中心主義」を最初に具現化したのが、ベルリン大学ではなく、ドイツ連邦時代の小都市ギーセンにおけるリービッヒの化学教室であったというのも興味深い。

 

 アルトホーフは1882年~1907年に活躍した文部官僚である。潮木守一によると、彼はドイツの科学・学問・大学の発展に偉大な足跡を残した人物で、20世紀初頭、ドイツの科学・学問・大学が世界のトップに立ち得たのは、彼の企画力と実行力によるという。1912年のカイザー・ヴィルヘルム研究所の創立にも、大きな貢献をしたと伝えられている。カイザー・ヴィルヘルム研究所は日本の理化学研究所設立にも、参考にされた。カイザー・ヴィルヘルム研究所の名前は、第二次世界大戦の終りまで続き、マックス・プランク研究所に引き継がれた。

 

 彼はまた、全ドイツの大学教授人事に強い影響力を持っていたという。その彼が意見を求めていたのは、ケクレ、バイヤー、ホフマンで、リービッヒのギーセンの化学教室で育った大物であった。

前にも触れたが、ドイツの大学は首都ベルリンだけでなく、全国各地の地方都市でも発展した。これは、ドイツがもともと小国家の連邦から発したことが影響しているが、それだけではない。アルトホーフの大学教授に対す任命権の大きさの影響が大きいと思われる。

ゲッチンゲンやミュンヘンの共同墓地で、一人の偉大な科学者を訪ねてゆくと、思いがけず、多くの有名な科学者に出会えるのも、科学大国だったドイツならではの現象であり、驚くばかりである。

 

この頃、ケクレは多くの時間をボン大学の教授で過ごし、学長や化学会長を歴任していた。バイヤーはリービッヒの跡をついで、ミュンヘン大学の教授を務めていた。この二人の跡は、第3回の「ドイツ化学史の旅」で訪れた。

 同時期に活躍した化学者はこの他に、エミール・フィッシャー、オストワルド、ネルンストらが挙げられている。医学生理学ではエールリッヒ、ベーリングが挙げられている。ベーリング以外はみなリービッヒ一族の科学者である。

 とくに、ケクレ、バイヤー、エミール・フィッシャーの系列からは多くのノーベル賞受賞者を出している。ノーベル賞受賞者を輩出した力は、アルトホーフの業績が大きいといわれている。

 

 この間、日本からは化学者として、1899年~1901に池田菊苗が、ライプチヒ大学のオストワルドに学び、1897年に鈴木梅太郎がベルリン大学のエミール・フィッシャーに学んでいる。少し遅れて1907年には、真島利行がノーベル賞受賞者で、クロマトグラフィーの発明者でもあるリヒャルト・ヴィルシュテッターに学んでいる。

物理学では、199396年に、長岡半太郎がベルリン大学のヘルムホルツに、ミュンヘン大学のボルツマンに学び、1894年および1909年には本多光太郎がベルリン大学に学んだ。20世紀の初めには、理化学研究所創立に貢献した大河内正敏もドイツ、オーストリアに学んでいる。

医学生理学では、1886年に、北里柴三郎がベルリン大学のコッホに学んだ。志賀潔と秦佐八郎はフランクフルト国立実験研究所のエールリヒに学んだ。

後に日本のリーダーとなった主だった化学者たちは、みな科学大国ドイツに学んでいる。     

 

第一次世界大戦中のドイツ帝国(1914年~1919年)(大正3年~大正8年)14

 

 第一次世界大戦中は、日本はドイツに対する交戦国となった。当然、ドイツへ留学は途切れていた。この間に海外留学を命ぜられたのは、のちに、「応用化学の京都学派」を形成する喜多源逸であった。14彼はおそらくドイツに留学したかったと思われるが、それが許されず、アメリカとフランスに向かったと考えられている。

 アメリカに向かったのは、191811月で、留学先はMITのアーサー・ノズルであった。ノズルは若き日にライプチッヒ大学オストワルドのもとに留学しており、ドイツ化学の影響を受けた人であった。前項で述べたように、オストワルドはリービッヒの孫弟子にあたり、日本からは池田菊苗が留学している。

 喜多は次の年、パリのパストール研究所ガブリエル・ベルトランのもとに向かっている。 

 

ワイマール共和国時代(1919年~1933年)(大正8年~昭和8年) 9)~12)13)15

 

第一次世界大戦敗戦後、ワイマール共和国時代のドイツは政治的に混乱し、経済的にも困難な時期を迎えていた。それにもかかわらず、ドイツ帝国時代の「学問の国」の立場は続いていた。さすがに、かつてのように他国を圧倒すると言う立場ではなかったが、世界の学問の中心の一つであるという地位は保っていた。とくに当時勃興期であった化学分野の高分子化学、物理分野の量子力学はその例である。

そのため、日本からは化学・物理・哲学それぞれの分野から多くの留学生を送り出し続けていた。

 

高分子化学では、シュタウジンガーの高分子説が提唱されたのが、1920年であった。ギーセンのリービッヒ博物館で入手したリービッヒ一族の関連図ではシュタウジンガーはバイヤーの系列ではないが、鶴田禎二によると、彼はミュンヘン大学のバイヤーに学んでおり、ケクレの原理を強く信奉していたという。「炭素が4価の元素であり、連結して鎖状分子を形成する」という考えが、高分子概念の出発点になったという。

のちに、アメリカでカローザスによるナイロンの発明が起こるが、ドイツはまだ高分子研究の中心であった。そのため、日本からは多くの高分子学者がドイツに留学した。

 

例えば、次の例が挙げられる。

京都学派からは、桜田一郎が192831年にライプチヒ大学およびカイザー・ヴィルヘルム研究所クルト・ヘスのもとに、193032年に児玉信次郎がカイザー・ヴィルヘルム研究所ハーバーのもとに留学した。

阪大からは呉祐吉、東大応用化学からは祖父江寛がそれぞれクルト・ヘスのところに留学した。クルト・ヘスはセルロースが専門であった。シュタウジンガーのもとには、東大薬学部の落合英二と京大理学部の野津龍三郎が留学した。東北大の星野敏雄はミュンヘン大学のヴィーランドのところに留学した。

企業からも、クラレの友成九十九および大セルの和田野基がクルト・ヘスのところへ留学した。

 

物理学では、量子力学の勃興期であり、第一次世界大戦直前の1913年にデンマークのニールス・ボーアが前期量子力学を提唱し、戦後の1921年には、コペンハーゲンにニールス・ボーア研究所が設立され、世界中の物理学者がコペンハーゲンを訪れ、自由に議論を戦わし「コペンハーゲン精神」といわれた。

1925年には、ドイツのハイゼンベルクが行列力学を、1926年にはオーストリアのシュレージンガーが波動力学を提唱した。

 

日本からは仁科芳雄がケンブリッジ大学キャヴェンディッシュ研究所(1922年)、ゲッチンゲン大学(1922年)、コペンハーゲンのニールス・ボーア研究所(1923年)に留学した。1933年には、朝永振一郎がライプチッヒ大学のハイゼンベルクのところに留学した。化学者・児玉信次郎が「量子力学が分からない者は教室に入れない」と言われたのは、この頃のことであった。

 

 哲学分野では、田辺元、和辻哲郎、九鬼周造、三木清、出隆らの著名な学者がみなドイツに留学したのもこの時代である。

 

京都大学工業化学科とドイツの化学

 

 最後に、「アイソマーズ」の一員として、ドイツの化学と京都大学工業化学科の関係について、考察しておきたい。

学生時代を振り返ると、私たちは随分とドイツ語で絞られた。私はドイツ語が苦手だったが、得意とする人も多かった。「ドイツ化学史の旅」も、ドイツ語が得意で、ドイツに駐在した経験がある仲間が3人いたことが、成功の大きな要因となっている。

 

 京都大学工業化学科の学風に大きな影響を残したのは、いうまでもなく喜多源逸であり、「応用化学における京都学派」を形成した。その喜多が影響を受けたのが、理化学研究所の精神であった。理化学研究所の経営は、ドイツ科学に学ぶところが大きい。

 喜多は、ドイツには留学していないが、ドイツの化学に対する思い入れは大きかったと思われる。工業化学科に有機化学者カール・ラウエルを招聘しているのも、その現われである。

 

 このあたりについては、前に、

 

論文 古川安『喜多源逸と京都学派の形成』を読んで

 

に書いたので、読んで頂きたい。

 

参考文献

1)坂井榮八郎『ドイツ史10講』岩波新書(2003

2)潮木守一『フンボルト理念の終焉? 現代大学の新次元』(東信堂、2008

3)田中實『化学者リービッヒ』岩波新書(昭和26年)

4)山岡望『化学史談2 ギーセンの化学教室』(内田老鶴圃新社 昭和27年)

5)   『化学史談4 ブンゼンの88夜』(内田老鶴圃新社 昭和29年)

6)   『化学史談5 ベンゼン祭』(内田老鶴圃新社 昭和33年)

7)クラウス・ハフナー著、中辻慎一訳『化学の建築家ケクレ ベンゼンいまむかし』(内田老鶴圃、1995

8)潮木守一『ドイツ近代科学を支えた官僚 アルトホーフ』中公新書(1993

9)高分子 47 増刊『日本の高分子科学技術史』(1998

10)西尾成子『現代物理学の父 ニールス・ボーア』(中公新書、1993

11)宮田親平『科学者たちの自由な楽園 栄光の理化学研究所』(文藝春秋、1983

12)米沢貞次郎、永田親義『ノーベル賞の周辺 福井謙一博士と京都大学の自由な学風』(化学同人、1999

13Siegfried Heilenz  “The Liebig-Museum in Giessen”

14)古川安、化学史研究 371〕1(2010)「喜多源逸と京都学派の形成」

15)鶴田禎二、高分子56〔1〕6(2007)「高分子説(1930年頃:シュタウジンガー)‐ケクレ原理から生まれた巨大分子」