リービッヒの生涯

 

リービッヒ(Justus von Liebig)は1803年ダームシュタットの塗料屋の息子として生まれた。学校はありきたりで面白くなかったが、家業の手伝いをしながら自分で実験をした。14歳のとき、学校で将来は何をしたいかと聞かれ、化学者になると言って大笑された。その当時化学者という職業はなかったのであった。

 

彼に大きな衝撃を与えた15歳での出来事は、行商人の売る火薬入りのおもちゃの魚雷(あるいはロケット)と見る機会であり、非常に興味を持った。火薬が水銀、アンモニア、およびアルコールを用いていることはすぐに見抜いた。自分でも、さらに性能の優れたおもちゃの魚雷を製造し父親の店で販売した。ところが、その魚雷が学校で運悪く爆発してしまい、退学処分を受ける。彼の両親は彼を薬剤師見習いとしてヘッペンハイムに行かせた。ここでも屋根裏部屋で魚雷を爆発させてしまい、ヘッペンハイムには居られなくなった。

ダームシュタットに戻ったリービッヒは読書と実験に半々の時間を費やした。かれの親には彼の教育を続けさせる余裕がなかった。幸いヘシアン政府からの奨学金でボン大学に入学できKarl Wilhelm Kastnerのもとに化学を学んだが、Karl Wilhelm Kastnerが無機化学をよく知らないことを見破ってしまった。リービッヒは火薬の研究を続ける一方、自然科学協会を作り自ら会長となった。Korps Rhenania(学生社交クラブ)のメンバーとなり会計を引き受けた。しかし地元の政府に楯突いて3日間投獄された。

この騒ぎの収まった後(1822、11月)彼はパリに留学の機会を得、Thénard, Gay-Lussac, Chevreul, およびVauquelinのもとで学ぶことになった。2年後ドイツのギーセン大学の助教授の地位を与えられたが、21歳の助教授に対する風当たりは厳しかった。

しかし、与えられた廃墟のような建物の中に、自分の経験にもとずき、それまでにはどこにもなかったような確信に満ちた化学教室を作った。そしてリービッヒは化学の偉大な教育者として知られるようになり、ヨーロッパの各地とアメリカから生徒が集まった。そして、その生徒の中から多くのノーベル化学賞受賞者が出た。

二冊の著書Organic Chemistry an its Application to Agriculture and Physiology, Organic Chemistry in its Application to Physiology and Pathologyが1840年と1842に出版された。

1873年に19世紀のもっとも偉大な化学者としての名声を残して死去した。

(中村省一郎記 May2010)