オーム苦難の生涯

 

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アイソマーズ第三回ドイツ化学史の旅で訪れたミュンヘンの旧南墓地Alter Südfriedhofには、オーム(Georug Simon Ohm 1789 – 1854)の墓がペッテンコファー(Max von Pettenkofer 1818-1901) の墓のすぐ近くにあった。オームは電気の基本原理であるオームの法則を発見し、電気理論の基礎を築いた。

 

墓石にはOHMという字の下に電線のコイルの絵が描いてある。

 

オームはババリア地方のエルラーゲンでロックスミス(鍵職人)の息子としてうまれた。彼の父親は正規の教育を受けてはいなかったが、自分で科学を勉強していて高い知識を持っていて、息子の高校のレベルまでの科学教育を与えた。オームは1811年エルラーゲン大学で博士の資格を得る。その後、小中学校の数学の教師として低賃金に甘んじた後、ケルンの高校に移り、物理を教え、また実験が出来る環境を得た。そこで彼は、当時イタリア人であるボルタが発明したばかりの電池について研究を始め、電流、抵抗、電圧の関係を発見した。当時は電線というのもが確立されておらず、自分で材質や太さの異なる電線を作った。その結果を1827年にThe Galvanic Circuit Investigated Mathematically(この題名は英語訳)にまとめて出版した。しかし、かれの勤める学校では、同僚たちに間違いであると非難され、高校教師の職をうばわれてしまった。その後彼は1833年ニュールンベルグで再就職するまで定職がなく、貧困苦難の生活を送る。やがて1841年にロンドンのロイヤルソサエテイで彼の仕事が認められ、1842年にはロイヤルソサエテイ会員となる。ようやくドイツでも1845年にBavarian Society of Science and Humanityの会員として認められた。1852年にミュンヘン大学の実験物理の教授となった。彼の死去する2年前のことであった。

 

オームの性格が内気であったことに加え、彼の数学力が完璧でなく、若いとき当時の権威者から見放されていたことなどがオームの人生の大きな障害となった。