京都学派・京大工業化学その後

 

大澤 映二

 

はじめに

2010412日神田学士会館におけるアイソマーズ東京支部臨時同窓会は、古川安氏の化学史研究誌掲載論文「喜多源逸と京都学派の形成」が主題であった。昼食を摂りながら伊藤・西村氏らの解説を聞いて、更に夕方上田に帰る車中で全文を通読した。克明に調べて丁寧に書かれた稀に見る力作である。我々が昭和29年度に入学した頃は、喜多先生がお亡くなりになって数年経った頃だった。京都化学同人の雑誌「化学」に喜多先生追悼座談会の記事が載ったので、我々の工業化学教室を作られた大恩人ということは知っていたが、それ以後喜多先生について知る機会がなかったので、古川論文の内容は非常に有益であった。

同窓会における会話の中心は、基礎を重視すると共に工業化を目指すという京都学派の指導原理についてであった。喜多先生はこの考え方をドイツ留学時に体得して、帰国したが、応用専心主義の東大工学部の方針に飽き足らず、新天地を求めて京都大学に移り工業化学教室を創設して、自由闊達で活気に溢れた雰囲気の研究環境を作り出して、大成功を収めた。その秘密が、自由な基礎研究の上に立つ科学的技術の展開手法にあったというのが、古川論文で繰り返し述べられている主張である。これについては、武山さんがご自分の体験を交えながら、解説して居られる。ここでは少し見方を変えて、研究者のあり方を、喜多哲学に重ね合わせつつ、論じてみたい。

 

京都学派の伝統は瀕死の状況

 欧米留学によって、近代科学成立以後の正統的科学研究の様相を目の当たりにした喜多先生が、その伝統を我が国にも取り入れようと考えられたのは当然である。もともと化学に限らず自然科学研究に関して、基礎と応用は混然一体であって、分けるのが間違いである。大学の中で、理学部で基礎を、工学部で応用をという発想自体が、科学研究を知らない官僚の思い付きであろう。明治の終わりに、東大で初めてこのような基礎・応用の分離が試みられたときに、反対が起きなかったこと自体が不思議である。明治以降の世界的軍備拡大競争の中にあって、国家として工業化を急ぐあまりの苦肉の策だったのかも知れない。ところが、この分離主義が広まる一方である。

 先進諸国のなかで、総合大学のなかに基礎研究の理学部と応用研究を標榜する工学部を分離して持つのは日本だけのようである。とくにアメリカでは大学はリベラル・アーツ、すなわち全人的教養を修める場所であるという考え方を、信奉していて、専門教育は大学院になってからである。一方で日本は、戦前に高等学校でリベラル・アーツ方式が全盛を極めたが、戦後学制がかわってから教養課程が作られてリベラル・アーツ復活の兆しを見せたものの、次第に軽視され、最近では大学院大学が中心となって、学部はその予科のような役に転落し、同時に教養部がほとんど廃止され、大学は職業教育の場になった。

 というわけで、問題は深刻である。喜多先生が起こされた京都学派の自由主義的研究教育の場は最早失われて、恢復の見込みはない。世の中は応用万能の時代になって、科学研究費も役に立たない研究には出ないと公言する人すらある。このような時期に、古川論文が書かれた本意は、教養大学主義の復活を促す警鐘ではないだろうか?

 せっかちなので、論理が飛躍して解りにくいかも知れないので、ここで一休みして、まとめてみる。国立大学の工学部で自由な基礎研究を重視するという京都学派のやり方は、正しい正しくないという問題ではなく、教養主義に貫かれた大方の大学ではごく当たり前なので、議論の余地はない。となると、京都学派が、日本の大学制度の枠内で、どのようにしてその主張を実践してきたか、どのようにして教養主義が可能になって、しかも成功したのだろう?自分が受けた体験から振り返ってみることにしたい。

 

喜多流京都学派の教育

昭和294月京大に入学した日に、式の後で工業化学科の新入生が集められて、工業化学科の主任古川淳二先生のお話を聞いた。そのときに、「諸君は研究者になるために大学に入った。研究とは新しいことを見つけることだ」と言われて、晴天の霹靂のように驚いたのを、まだ覚えている。研究者という職業があるとは聞いたことがなかった。それでは、研究者になるにはどうしたらよいか?私自身が研究者になりたいと強く思った事件があったので、それを紹介しょう。

4年生の夏休みが終わり、卒論研究を行うために小田研に入れてもらって、吉田善一先生(当時は助手)から、「アクリル繊維の染色性が悪いので、良く染まる染料を見つけなさい」というテーマを頂いた。講座に保管されていた多数の染料の中から、目的にかなう染料を2,3見つけて、構造式をしらべてレポートを書いて、2ヶ月ほどで終わってしまった。しかし、始めて染色実験をやってみて、染料によって繊維が染まったり染まらなかったりするのは何故か興味を持った。Vickerstaffという人の染色原論といった感じの本を海賊版で手に入れて読んでみると、染色の基礎があまり良く解っていないことがわかった。染料と繊維の間に働いている力を直接調べたいと思って、アメリカ化学会誌を見ていたら、R. WestP. v. R. Schleyerが共著で速報に芳香族炭化水素分子のπ電子がアルコール、フェノールなどの水酸基との間にO-H・・・π型水素結合をつくることを赤外スペクトルから確認した、という論文に行きあたった。この相互作用が、木綿に多環式芳香族染料が染まる理由ではないか、と思って吉田先生にこれをテーマにしたい、と恐る恐る申し出たら、なんと意外なことに許可がでた。当時は京大に赤外分光器が無かったが、先生は島津製作所の研究所長が小田研卒業生だったので、交渉して売約済みの最新型回折格子型分光器が一台、出荷まで倉庫に保管してあるのを使わせて貰うという約束を取り付けて下さった。そこで京都の島津製作所に2週間ほど毎日市電で通って、フェノールとナフタレンなどの赤外スペクトルを測った。水酸基吸収帯はフリーのOHと水素結合OHの吸収が接近して重なり合うので、Lorentz曲線の重なり合いとして、手で分割した。これに時間がかかって、結局修士論文まで持ち越したが、苦労の甲斐があって論文は最終的にJ. Phys. Chem.に掲載された。

 このテーマは、染色実験と違って、すべてが新しく、しかも自分で言い出したことなので、すべて自分で解決しないといけない。それには全部自分で勉強して、すべての障害をクリアしなければならない。これが非常で面白く、且つ遣り甲斐のある体験だった。それまでは解っていることを教えて貰っていただけだったが、新しいことを研究するというのはこういうことだったのかを体験した。当時東大理学部化学科の気鋭の大木道則研究室の中心テーマであった分子内O-H・・・π結合とかちあって、思わぬ競争になり、またこれがきっかけでWest先生とも知り合いになったり、水島三一郎先生が戦後初めて日本で開催された国際会議で発表させて頂いたりと多忙で充実した日が続いた。この時に、どうしても研究者になりたいと思い定め、以後紆余曲折があったものの、結局研究者になった。いまの望みは、魁皇や小錦のように、最後まで土俵ならぬ研究を続けることである。

 さて、私の限られた経験を一つの典型例として眺めてみると、大学の教育は研究者の卵に実地訓練を与えるのが最大目的の一つで、これは当然基礎研究である。応用研究はその先の話である。応用研究しかやらない学科であったとしたら、この順を踏むことができない。実地訓練では、自由にテーマを選ばせることが必要である。さもないと、学生は先生を頼ってしまって、力がつかない。ところが、このような経過を辿って私が研究者としての道程に踏み出したのは偶然ではない。今から振り返ってみると、喜多先生がこのようなレールを既に敷いて下さっていたので、孫弟子の吉田先生も心得ていて、上手く操縦して下さったということになる。

 

リベラル・アーツの残照

 大学院大学への改組によって、高等学校型リベラル・アーツの最後の砦であった教養課程がほぼ消滅し、日本職業学校体系全盛の時代に入ったが、一つだけリベラル・アーツの伝統が残った。それが東大教養学部で、博士課程まで備えた堂々たる組織となり、人気が高く、学術活動も極めて盛んで人材を輩出している。残念ながら京大では、すでに我々がいた頃の教養課程に、三高の香りはほとんど残っていなかったことから想像がつくように、今はリベラル・アーツの伝統はない。自由で、優れた研究者が分け隔てなく討論して、日夜研究に励む、かつての工業化学の面影は残っていないような気がする。世界大学ランキングを見ても、日本の大学はほとんど入っていない。方針が間違っていることが明らかである。

 

終わりに

 書き始めたときには、これほど悲観的な結論になるとは思わなかったが、意外な結末になって、我ながら驚いている。どなたか、解決策を提示してくれることを期待したい。

201058日軽井沢にて)