プランク

 

プランク(Max Planck) は代々学者である家庭で1858年に生まれた。父親はキエルとミュンヘンで法律の教授、祖父と曾祖父はともにゲッチンゲンで教授、叔父は判事であった。1867年のデンマークープルシャ戦争のあと、家族はキエルからミュンヘンに移り住んだ。プランクは音楽の才能がありピアノ、オルガン、チェロを弾き、作曲も行い歌劇も作ったが、物理にも優れた才能を示した。音楽を職業とすることをやめ、ミュンヘン大学で物理を専攻した。

 

1877年ベルリン大学へ行き、ヘルムホルツ、キルヒホッフ、ワイエルストラスに師事した。1879年熱伝導にかんする論文を完成して、博士号を得た。

 

その後、ミュンヘン大学に戻り、無給の講師となったが、1885年にキエル大学で準教授をして迎えられ、熱力学と物理化学の理論に貢献した。4年後、ベルリン大学からキルヒホッフの後継者として迎えられ、1892年正教授。ウイーン大学からもボルツマンの去ったあとの席に招かれたが、辞退しベルリンにとどまった。1926年にベルリン大学を退職し、そのあとシュレーデインガーが後を継いだ。

 

プランクの物理へのもっとも偉大な貢献は、黒体からの輻射における電磁波の強さと波長の関係式(スペクトラル エナージー デンシテイー)を正しく導いたことである。しかしその式を導くときに、量子の考えを用いたことが成功に導いたため、プランクは量子力学の先覚者ともなったのである。

 

もう少し詳しくはこうである。1893年にウィルヘルム ウイーンが関係式を出していたが、波長の長い領域で実験と合わないことがあきらかになった。プランクはその式の改良をするため、黒体からの電磁波の放出は不連続なエネルギーレベルをもつ量子によって起こることを仮定して、統計熱力学をもちいて、ウイーンの式を書き直し、実験と一致するようになった。彼自身、その方法論をひとつの方便と考えていたのだが、本質をついていて、量子力学を先導する結果となった。プランク常数(hであらわされる)は電磁波や量子力学の式には必ず出てくる。

 

1914年、ベルリン大学のデイーンになっていたプランクはアインシュタインを教授として呼び寄せた。アインシュタインの相対性理論にこのような名をつけたのもプランクであった。この二人は、仕事で協力しあったばかりでなく、音楽の合奏でも気が合ったといわれる。ヘルムホルツも楽器がうまく、合奏に加わった。1919年ノーベル賞受賞。

 

プランクは量子力学を切り開いた先覚者たち、ボーア、ハイゼンベルグ、シュレーヂンガー、ラウらと非常に近い関係にあったが、彼らと理論的な意見の合わないことも少なくなかった。1920年にはプランクはドイツ物理学会の最高権威となった。

 

1933年、プランクが74歳のときナチが政権をとった。彼はナチとなるべく衝突しないようにしながら、ユダヤ人の学者をかばったが、それも限度があり、暗い時代に突入していった。またかれの息子や娘、妻に死なれ、苦しい老年を迎えた。1947年にゲッチンゲンで死去。