オランダ人に成りすましていたシーボルト

 

ミュンヘンの旧南墓地にはシーボルト(Philipp Franz Balthasar von Siebold1796-1866の墓がある。シーボルトは幕末に長崎出島で開業し、また日本人にのオランダ医学を教えたオランダ人として知られているので、なぜミュンヘンの知名人に混じってそこに墓があるのかが不思議に思えたが、その理由はシーボルトはドイツ人ではあるが、日本ではオランダ人に成りすましていたためであった。

 

 

 

シーボルトはドイツのウイルツバーグ(ミュンヘンの北北西200Km)の大学の教授の一人であるドーリンガーから医学を自然科学として扱う考えかたを学んだ。同時に、アレキサンダー フォン フンボルトの書物から植物と探検に非常に興味を持つようになった。1820年に医師の資格を取ってから短い間医者として働いたが、遠い外国へ行きたい希望から、オランダの軍医の職に着いた。結局、長崎出島の専属医師に納まったのである。かれはオランダ語を話したが、発音が変だと言って怪しむ日本人には、自分はオランダの山岳地帯の出身だから発音が地方訛なのだと説明していた。オランダに山岳地帯などないが、オランダに行ったことのない日本人は気がつかなかった。

 

彼は日本人に西洋の科学と医学などを教える一方、日本の習慣、文化、地理、植物などの情報を貪欲に集めた。

 

シーボルトは日本人女性(楠本滝)と結婚し二子を設けた。シーボルトは医学校を開き、50人の生徒がいた。楠本滝もシーボルトから医学の訓練をうけ、日本初の女医となった(1903年死去)。この生徒たちはシーボルトの日本の植物の研究を助けた。彼は1000種以上の日本の植物を裏庭に植えていたといわれる。彼の出島滞在中、3度にわたって数千種の植物ををオランダとベルギーに向けて発送した。

 

1826年、江戸幕府に出向いたが、その旅行中いたるところで地図と動物を手に入れた。その中でも北海道と韓国の地図を手に入れたが、当時の幕府はこれらの地図を外国人に渡すことを堅く禁じていた。このことを知った幕府はシーボルトをロシアのスパイであると非難し、1829年日本から追放する結果となった。

 

シーボルトのヨーロッパに持ち帰った多くの植物は、ベルギーのゲーント大学とオランダのライデンの植物園に植えられた。これらは日本の植物が世界に広められるきっかけとなり、現在もシーボルトの名のついた植物は多い。

 

シーボルトは植物以外の分野でも日本の情報に詳しい人として、西洋諸国とくにオランダ、英国、ロシア、アメリカ政府から重用された。例えば幕末の開国に関して西洋諸国が日本に働きかける際シーボルトは情報源として重宝されたという。日本の文化、植物、動物に関する著書を書いた。

 

晩年はウイルツバーグに住んだ。死去はミュンヘンであったという記載がある。