Benjamin Thompson, Count Rumford (17531814) (2)

 

 科学者、発明家、改革者、スパイ、職業軍人、崇められる一方で軽蔑され、名誉と悪口を二つながら受けたニューイングランド生れ。今はDartmouth College のキャンパスFairchild Centerの壁面に顕彰碑がある。

 

 1753326日、マサチューセッツ州のWoburnに農夫の息子として生まれるが,2才にして父を失う。少年時代は殆ど独学で、長ずるに及んで友人、知己から情報を得た。好奇心に富んでいたので、早くから科学的疑問を持つ。13才で輸入業者の徒弟となるが、やがてWoburnDr. John Dayの徒弟に入り、科学を学び、医薬の技術も学ぶ。彼は徒弟の職を受け入れられず、1772年(19才)にWoburnを離れ、Bedfordの学校で教員となる。そこで、後にHarvard Collegeの教授となるSamuel Williams牧師の下で、科学に真剣に取組むが、ここでの教師の地位も彼を満足させず、その夏、ニューハンプシャー州のConcord(旧くはRumford)に移り、Timothy Walker牧師に招かれて、その学校で教鞭をとる。英国植民地時代の教師の常で、この後援者の家で暮らす。

 数か月経たぬうちに、若者Thompsonは、14才年上の未亡人、かつConcordの大地主でもある後援者の娘と結婚し、この土地の地主となる。経歴としての教師を止めて、紳士を装うが、数年のうちに彼の運命が劇的に変わる。彼の貴族的気取りから、彼が大英帝国主義者との疑いを煽ることになり、地域の愛国者たちによる捕縛が差し迫ると警告されるや、彼は、突然深夜に義兄の名馬を駆って、汚名を着せられるのを避けて町を去る。その直後、ボストンの英国擁護派に加わり、英軍のスパイとなる。

 1775年(22才)頃、Thompsonは英国に渡り、植民地相のGeorge Germain卿の援助で、英政府での役職を駆け上がる。この時期にThompsonは時間を見付けては火薬の火力の科学的研究を行い、また、英国海軍の海上信号の新システムを開発する。1781年(28才)にRoyal Society of Londonで火薬の力に関する彼の最初の科学論文を発表し、その会員となる。間もなく、彼は英王室の近衛騎兵隊中佐となり、直ちにアメリカに渡って、英国擁護派の騎兵連隊を指揮する。ところが、彼らが実働する前に、独立戦争が決着したので、Thompsonは英国に舞い戻る[1784年に紋章の認可を受ける]。この王冠への奉仕により、彼は陸軍大佐に昇進し、終身年金を受ける。やがて彼は、職業軍人として大陸へ向けて出発する。このヨーロッパ遍歴の初期に、彼はウイーンで初老の婦人に出会い、戦場での勝利に勝る、異なる種の光輝に私の眼を開かせたと書く。

やがて、彼は人類の福利に彼の才能を捧げることになる。

 以前からの招聘を受け入れて、ババリアの選帝侯に出仕する。Thompsonのババリアでのホームレスと貧困者を援ける改革により、彼は社会変革の先覚者となる。貧しい子供たちに学校を造り、工業専門学校、獣医外科のカレッジを設置、家庭での手工業、これまで怠惰な兵士に付加給付きの非番勤務などを設ける。彼は庭園の植生、作物転換、殊にそれまでヨーロッパ人に害毒と考えられてきたカブや馬鈴薯など食用作物の育成を奨励する。彼はミュンヘンに美しい600エーカーのイギリス式庭園 [] をデザインし、設営を任される。これら総ての功績に対しババリアの選帝侯は1792年(39) Thompsonを神聖ローマ帝国の伯爵に叙す。Thompsonはこのタイトルに、彼の命運を劇的に変えた最初の結婚の地であるConcordの古名Rumfordを選ぶ。

 [] その後、983エーカーに拡張された庭園は、ニューヨークのCental Park (843エーカー) を凌ぐ広大な公共の公園となる [1エーカーは約0.405 ヘクタール]

 

 彼の社会変革活動に加えて、彼は時間を見付けては、まさに彼を有名にする最も重要な科学的研究・実験の多くを行い、更に台所のストーブ、オーブン、火を用いない調理器や、ドリップ式珈琲ポットや鍋のデザインなど、数多の実用的な発明をおこなう。

 1798(45) Rumford伯はババリアを離れ、ロンドンに向かう。そこでの彼は、新式の暖炉を工夫し、イギリス家庭の多くがそれを設置する指導をする。彼は、世界初の研究センターであるRoyal Institutionを提唱、設置を援けるが、間もなくそこでの同僚と意見が合わぬため引退し、パリに向けてロンドンを離れ、再び戻ることはなかった。[]

 [] Royal InstitutionRumford MedalRumfordは、Rumford Medal を創始し(1799)最初に自分が受賞している。これは、当時、最先端の科学研究であった「熱と光」に関する賞牌で、その後にHumphry Davy (1778 1829)Augustin-Jean Fresnel (1788 1827)Michael Faraday (1791 1867)Henri Victor Regnault (1810 1878)James Clerk Maxwell (1831 1879)Gustav Robert Kirchhoff (1824  1887)John Tyndall (1820 1893) などが受賞している。[木下 實先生(東京大学物性研・名誉)の御教示による]

 

 パリで、間もなく彼の旧友のLavoisier未亡人と再婚するが、4年間の二人の共同生活は幸福とは言えず、1813年には離婚する。Rumfordはパリ郊外のAuteuilに隠棲し、そこで科学的主題に注力して、広範なトピックの論文を執筆し、181482161才で没した。

 

 

 180年後、ニューハンプシャー州のDartmouth Collegeでは、Fairchild Towerの目立つ壁面に、Sanborn Brownの未亡人Lois Brownの寄贈になる、彼女の亡き夫とBenjamin Tompsonを記念して、色鮮やかなRumford Mosaicが嵌め込まれた。この物語の起源もまた魅力溢れるものである。

 

出典Count Rumford, Sanborn Brown, and The Rumford Mosaic, By Allen L. King

http://www.dartmouth.edu/~library/Library_Bulletin/Apr1995/King_Rumford.html#fn5 (8/29/2010 リンクの訂正)