Mme. Marie-Anne Pierrette (Poulze née) Lavoisier (1758-1836)

 

 Marie Sklodowska Curieが理論科学で婦人の地位を築いたより1世紀前に、編集者、翻訳家、挿絵画家のMarie Paulze Lavoisier, 化学者Antoine Laurent Lavoisierの妻であり、研究のパートナーとして、実験室の仕事に携っていた。夫の助手兼同僚として、彼女は化学において初めての女性研究者となっていた。その上、彼女は芸術を愛好し、その時代の知識人たちをパリの自宅のサロンに招いて談話を楽しむのであった。 []

 []  Mme. Curieのノーベル化学賞受賞から100年目に当たる2011年を記念し、国連総会で採択された世界化学年 (International Year of Chemistry: YIC 2011) の一環で、我国でも日本委員会が設立されている。

 

 Marie-Anne Pierrette Paulzeは、富裕な大修道院長の甥であり、貴族・学者のJacques Paulzeの美しく、知的好奇心の強い娘として1758年に生まれる。母親の死後、1771年女子修道院学校を離れて、父の家庭の女主人役を果たす。彼女自身は化学と英語を学んでいる。14才のとき、家族の友人だが、無節操な財産目当てだけの、36才も年上のCount d’Amervalとの縁談を避けて、Paulze家に常々客となっていた28才のAntoine Laurent Lavoisierとの結婚に同意した。この法学士の新郎は、評判の高い地質学者・化学者でフランス科学アカデミーの会員である。彼の母親がかなりの相続財産を与えて独立させてくれたので、彼は理論化学への志向を追求し、論理と数学的原理に基づいて、化学に革命を起こすことになる。

 Lavoisier家はなんでも共同で、それには結婚祝いで貰ったパリの家の2階にある科学実験室も含まれる。彼等はチェスなどで遊び、天文学、化学、地質学の議論を楽しむ。彼は妻に天秤や集光レンズ、還元容器の用法を訓練し、科学者の言語であるドイツ語、ラテン語を教える。彼女は、彼が催眠術師の苦情に論駁し、熱気球を吟味したり、市中の伝染病の原因や、メートル制の精密化を精査することにも関心を寄せる。火や熱の物理的性質を探求する夫を手助けするのに、自分で英語を学び、フランス語に翻訳した米・英の論文を夫に紹介する。彼女は、フランス人画家Jacque-Louis Davidから絵画のレッスンをも受けて、夫であるAntoineの論文のイラストを描き始める。[]

 [] David (1748 – 1825) は当代切っての有名画家で、現在ルーヴル美術館にある「ナポレオンの戴冠式(1808) の大作は良く知られている。

 

 妻そして実験パートナー:この結婚で子供は成さなかったが、Marie Lavoisierは二人の日常の仕事を整理して、研究のスケジュールに取り組む。チームを組んで、その科学的特性を錬金術から解き放し、最新式の科学器具に進化させることで、二人は近代化学を確立させた。彼等は ”oxygen” を造語して、それがガス状の元素であると同定し、鉄を錆させるのが酸化過程であることを明らかにする。且つ通常のヒトの呼吸で水と二酸化炭素が生じると分析した。1774年の春、二人は封管中のスズと鉛を煆焼する実験をして、焼けた金属の重量増加が空気との結合に由来することを確かめた。彼らの細心のプロジェクトの結果は、燃焼にフロギストンなる元素が必須であると守ってきた、以前の燃焼説が誤りであることを立証する。Antoineは、科学に最も重要なこと、化学反応の全過程で重量の増減がないことを確立し、物質の保存則を定式化した。化学を物理および数学的法則と結び付ける理論である。

 これらの実験の間、Marie Lavoisierはノートを作り、研究記録を整理した。Antoineの科学論文や専門書について、彼女がテキストをラテン語に翻訳し、註を付け足した。英国の物理学者Joseph Priestley177410月に彼等の家を訪問し、彼自身の実験の知見を議論した会談のあとで、Lavoisier家は燃焼の残渣を吟味した。その結果、ドイツの化学者Georg Ernst Stahlやその他のフロギストン説の誤りを確かめた。お祝いとして、Marieは彼らの誤りだらけのテキストを燃やして、その値打ちの無さの象徴とした。

 

 科学的発見によるLavoisierの名声の確立:化学の進歩に対する功績ではLavoisier家は報われなかった。

17754月に、Antoineはフランスアカデミーで開拓者的な論文、”On the Nature of the Principle Which Combines with Metals during Their Calcination and Increases Their Weight”を発表、それは1778年に出版された。Antoineは火薬を扱う職権のある政府の地位を得て、王立兵器廠に家と実験室を提供され、1775 -1792年の間そこに留まる。1777年に、Antoineはスウェーデン王Gustaf IIIに理論化学におけるNobel priseを働きかける一方、ガスと風船によるLavoisier家の実験を改善している。にも拘らず、Antoineは、Lavoisierの実験法よりも前に酸素を発見していたと主張する、ScheelePriestley の二人に敗れてしまう。

 Marie Lavoisierは、Antoineと共に達成した、化学での大発見について名声を逸しても、言うまでもなく切り抜ける。1783年に、二人は火、燃焼および酸素の定式化した新しい説を発表し、如何なる化学変化においても“なにも増えず、なにも減らない”という科学的法則を広める。1788Marie Lavoisierは、Henry Cavendish, Joseph Priestley, およびアイルランドの化学者Richard Kirwanの著書 ”An Essay on Phlogiston” を仏訳し、かつ、De la force des Acides, et de la proportion des Substances qui composens les Sels neutresを英訳した。さらに、1792年、Kirwanのフロギストンに関する論文への彼女の注釈とAntoineの逐条的な反論がAnnales de Chimieに掲載された。

 

 科学研究、著作、および挿絵:科学の将来を見据えて、Marie Lavoisierは、家庭で催すサロンに科学者たちを歓迎した。そのような機会に、農学者で作家のArthur Young, Travels in France During the Year 1787, 1788, and 1789 の著者が書いている。“活発で繊細な、科学者のレディーである、ラヴォアジェ夫人は、デジュネに英国風紅茶と珈琲を支度していたが、彼女が英語から翻訳したKirwan氏のエッセイ‘フロギストンについて’や、夫の実験室で共に働いているこの聡明な婦人がどれほど魅力的なのかが分かる、ほかの話題が最良の御馳走だった。”Youngは、彼女の活力とやる気に注目し、有力な化学理論への理解は国際的な情報から得たものとだしている。

 彼女の夫の古典的総括であるTraité Élémentaire de Chimie (1789) は初めての近代化学の教科書だが、それに彼女はオリジナルのスケッチ、水彩画、13枚の銅版イラストを作り、科学命名法の改良版をつけて、不適切な語句を置き換えた。このLavoisierの化学教科書が元素の新しい定義と、その時までに同定されていた総数23の元素を確定した。それぞれの実験について、彼女が装置と実験成果のスキーム図を銅版で作り、その各部分にアルファベット記号を付して、それぞれの機械的要素の機能を説明した。印刷にまわすスケッチの完了のマークにPaulze Lavoisier sculpsitと刻印した。

 

 フランス革命と未亡人時代:フランス革命に続く恐怖政治の間、当局がAntoineの火薬管理者を免じた後の1792年にLavoisier家は家と実験室から追い出された。その1年後、革命政府は科学アカデミーの仕事を停止させる。17931124日召喚状が出されたので、Lavoisierは過激派から逃れようとするが、彼等はAntoineを逮捕し、彼の家の周りに壁を築いてパリ市民を監禁した罪、および葉の中の水分を保持する実験法の文献を混同して、兵士用の煙草を水増しした嫌疑で、ジャコバン党の法廷で裁判した。

 Marie Lavoisierは、179358日、共和派のメンバーが彼女の父と夫を反逆罪で断頭台に送ったので、孤児となり、未亡人にされた。 仇敵の革命派のJean-Paul Maratは、Antoineが彼を科学アカデミー会員にすることに反対したのに妬みを抱いていて、Jacques PaulzeAntoineおよび26人の疑わしい共謀者が、税収を請け負う私企業Ferme-Généraleを通して公的支出で高収入を得ていたと非難した。このばかげた告発によるMaratの迫害に直面して、Marieは悪名高いパリのBastille監獄に65日間服役した。自分の地所を没収されて文無しになった彼女は以前の召使の世話を受けることになる。[]

 [] セレスタン・ギタール,レイモン・オベール「フランス革命下の一市民の日記」河盛好蔵訳(19863月、中公文庫、絶版ISBN 978-4122013117 を筆者は読んでいないが、むかし書評で見た限りでは、今日は何人が処刑されたという詳細な記録がある由。

 

Antoineのいない生活: 科学にとって幸いなことに、その年内に共和国は、Marie Lavoisierの不動産と没収していた、いずれ彼女が印刷して保存する積りであった、科学的な文書とを返還した。彼女は、計画では八巻になるMemoires de Chimie1, 2, 4巻の夫の序文を編集する。彼女と同僚は1796年にノートも編集したが、意見が違って別れて、彼女自身の序文を付した2巻の業績集を発刊した。1805年にはフランス人の化学者に向けて無料のコピーを刊行している。この同じ年、Marie Lavoisierは化学界の有力者Pierre Samuel Dupont de Nemoursの度重なる求婚を拒絶し、永年彼女のサロンへの訪問者で、アメリカ出身のババリア陸軍のアドバイザー、英国Royal Institutionの創設者にして台所レンジをデザインした、国外追放の身の発明家Benjamin Thompson, Count Rumford,に心を寄せる。4年に亘る友情を交わしてのちBenjaminと結婚するが、Lavoisierの姓を名乗ることを選ぶ。ヨーロッパを旅して廻るが、二人の激しい性格の行き違いから何の心の安らぎも得られず、彼女のAntoine との18年間への挑戦とも受け止められる。彼女はenjaminが彼女の金を差し押さえ、彼女の活動に口を挟むことで喧嘩をした挙句、彼の花園に熱湯をかけて荒れ果てさせてしまったと伝えられる。4年の後RumfordMarie  Lavoisierは離婚した。

Mme. Lavoisierは科学の実験を放棄し、1836年に死去するまで四半世紀近くの間、事業と慈善に献身した。

彼女は日記も自伝も残さなかったから、Antoineの実験室での彼女の役割は明確でなく、彼女の化学への寄与も確かでない。彼女の私生活で残されたものは、彼女が十代に描いた自画像、彼女による米国の科学者で政治家のBenjamin Franklinの肖像、およびJacques-Louis Davidによる,小ざっぱりして、わきまえのある服装で、柔らかにカールした長髪の若い婦人の油絵である。その絵では、彼らの実験器具が広げられたテーブルの前で彼女が夫の肩に和やかに凭れている。

 

現代の伝記は、Marie Lavoisier19世紀の女性差別により見過ごされていた真の科学者であったか、あるいは夫の目覚ましい発見の単なる秘書、翻訳者、出版人であったかを決めかねている。2000年にCarl Djerassiとノーベル化学賞受賞者のRoald Hoffmannとが、名高いLavoisier家の共同作業を気の効いた歴史劇Oxygen”で再現して見せた。そのテキストは、ノーベル委員会の受賞者選定の仕方にコメントしていて、それは科学研究に関する翻訳の影響、子供のないこと、および女性研究者が連れと組んだ場合に、歴史的に見過ごされてきた科学における婦人の地位である。[]

 [] “Oxygen”, John Wiley & Sons, 2001.

 

 

出典:http://www.answers.com/topic/marie-paulze-lavoisier