2011年 洛禎OB会(その1)

伊藤一男 (2011-11-8) 
 

2011年11月5日、今年もまた洛禎OB会が銀座のイタリアンレストランで開かれました。  

洛禎OB会とは、京大時代に鶴田禎二先生から指導を受けた連中のうち在京者の集まりです。間もなく92歳を迎えられる鶴田先生は、 背中がやや丸まってひと回り小さくなられた感がありますが、それでも矍鑠としておられ、丁寧でソフトな語り口は昔とちっとも変わりありません。 毎年、イタリア料理に舌鼓を打ちながら、先生から京大工化系教室の懐かしい昔話を伺うのが通例となっています。

因に、先生から指導を受けた教え子は、昭和26年卒から同36年卒の元紅顔の美少年(?)たちですが、 写真を見ると師弟の違いはにわかには判らないほどです。今年は先生を含めて15名が出席し、 わがアイソマーズからは松本君と私が参加しました。

今年の先生のお話は「合成化学科創設への胎動と草創期」でした。

京都大学工学部に合成化学科が創設されたのは51年前の1960年。なぜこの時期に合成化学科が創設されたのか。鶴田先生は当時の経緯を内側から知る者として、諸事について述べられました。その中から印象に残ったいくつかを紹介しましょう。

1)合成化学科創設への胎動  以下は鶴田先生のお話の概略です。 <もともと、京都大学の工業化学系には、1939年以来、燃料化学、繊維化学、および化学機械の3学科が次々と開設され、 既設の工業化学科とともに4学科からなる層の厚い工化系教育研究の場がすでに創られていた。 これは、当時の先任教授・喜多源逸先生の先見性と卓越せる指導力によって実現されたといっても過言ではない。  

1945年8月敗戦からの苦難の時期、日本は復興への歩みを続け、 戦後堰を切ったように流れ込んできた西欧の思想・哲学や科学・技術との出会いに応接のいとまもない状態でした。 京大の工化4教室も,戦後急転する時代の流れを真摯に受け止め、可能な限り新しい教育研究体制の改革が進められていた。 1950年、工業化学科では第7講座(重合化学)の実動が正式に開始され、古川淳二先生が高槻の化研から転じて第7講座を担当された。

工業化学科第7講座には、俊秀の学生・研究員が多く集まり、研究活動も次第に活発になってきた。 なかでも、ニッケル錯体触媒によるブタジエンの重合、有機金属によるエポキシドやアルデヒドの重合など、 新しい立体特異性重合の領域が意欲的に開拓され、Prof.Furukawaの名声は世界に広まり、多くの国際学会で活躍された。

当時の世界的・時代的な流れを知れば知るほど、「有機化学をベースとする合成化学領域の研究推進が是非必要である。 この領域の教育研究を主掌する合成化学科を創設し、工化第5の柱として伸展を遂げたい」との思いが新学科創設への駆動力となった。 この思いに駆られて古川教授は各方面を説得、学内の協賛を得、所轄官庁に受理され、はじめて新学科の合成化学教室の創設が実行に移された。 今から考えても、先駆的卓見に基づくものであったと思われる。> 

*<思い出話> Zieglerの業績に対する小田良平先生の深い感慨  

鶴田先生が1951年に新設された工化第7講座(古川淳二教授)の助教授として赴任された当時の雑誌会の様子。 以下は鶴田先生の言。

<この頃の雑誌会は小田研・古川研の合同でやっておりました。1953年の或る雑誌会の席上で小田良平先生が、「今までは、ポリエチレンをつくるのに1000気圧もかける必要があったが、この新しい方法では常圧でポリエチレンが生成する」と高揚した面持ちでZieglerの仕事の速報を紹介されました。小田先生はその昔、1941年の秋学期から、当時ハイデルベルグ大学のZiegler教授のもとへ留学することになっていて、しかも送別会も済んでいたのですが、出発直前になってキャンセルになりました。 ドイツ軍がソ連領内に電撃的な侵攻を決行し、 シベリヤ鉄道が不通になってしまったからです。 戦後の1953年Ziegler教授の画期的な仕事を知り、小田先生ご自身たいへんな衝撃を受けられたことと想像いたします。>

 次回は「合成化学科の開設」について