201126

西 村 三千男 記

 

「旅の雑記帳・オランダ」 

 

第14話 「オランダ病」と「オランダの奇跡」〜その2

 

1980年代(続き)

 1982年11月に締結された「ワッセナー合意」は「三方一両損」とも

云われた。当事者の三者全てが重い負担を約束する協定であった。労働者団体

は10%賃下げを、雇用者団体は雇用の確保と年間労働時間の短縮をそれぞれ

飲んだ。一方、政府は双方を支援するために、労働者の減税と企業の社会保障

費の軽減と、転職する労働者の再教育を約束した。三者それぞれが不利な条件

を飲む政策パッケージであった。産業競争力を回復するためには、人件費の抑

制が必要であった。それと同時に失業者を減らすための最善の方策はワークシ

ェアリングであった。これらが軌道に乗って、成果を上げるには10年以上の

歳月がかかった。この間、懇意にしていたAKZO社のスタッフで転職、退職

した人もある。

 

1990年代

オランダのワークシェアリングが成果を上げ始めると、世界中から、そして

日本でも注目されるようになった。当時、失われた10年(後に〜20年)に

苦しむ日本の学ぶべきお手本として、日経新聞が繰り返し取り上げた。

添付資料「オランダに学べ」:1998.8.31日経朝刊、p9)。

高分子同友会の勉強会のテーマにもなった。オランダの採用したワークシェア

リングの仕組みは、中途半端なモノではなく徹底していた。パートタイマーと

正規雇用者の賃金や労働条件は「同一労働〜同一賃金」の原則適用することを

法律で保証した。パートタイマーとフルタイマーとの相違は年間の労働時間数

が異なるだけ・・・と法で定めた。斯くして、出産〜育児や介護で一度職場を

離れても再就職の際に不利益が生じない。無理に正規雇用にしがみつくことが

無くなった。多くの女性たちの働き方の選択肢が増した。

 

 1989年、私は工場長から研究所長に転任し、暫しAKZOともオランダ

とも疎遠になった。ところが、思いがけなく1993年に高分子同友会の第4

次欧米化学企業調査団のメンバーに選任されて、団としてAKZO総本部(当

時はアーネム市)をも訪問する機会を得た。応接したAKZO幹部の1人は旧

知の幹部で「ヤア、ヤア」となった。ワッセナー合意から11年を経て、オラ

ンダ経済は再び活性化し、AKZOは折から「選択と集中」に取り組んで自信

満々であった。

 

2000年代

前回の冒頭に書いたように、オランダの友人たちは自分自身と国家の将来に

殆んど不安を抱いていない。偏狭な職業意識?を持つ私から見ると職業と職場

に対するロイヤリティに些か欠ける様にも思う。ワークシェアリングは社会的

な要請であるから、「時間外労働〜残業」は悪である。一方「早期退職」は善

である。友人のMさんは早期退職して、車いすのバレーボール協会に長年奉仕

している。特殊化学品カンパニー社長であったVさんは任期半ばで早期辞任し

て、農業に就いた。

 

                        (この項おわり)