宇田川榕菴と「津山洋学資料館」

  武山高之

 

『舎密開宗』を読んでいると、宇田川榕菴は近代化学の優れた紹介者であるとともに、日本で最初に物質を構成する元素について考えた自然科学者ではなかっただろうかと思うようになった。

 

『舎密開宗』には、空気は窒素と酸素の混合物、水は酸素と水素の化合物、30種におよぶ元素の存在、有機化合物の化学式など、物質を構成する元素に関する記載がある。

宇田川榕菴もいろいろ思いを巡らしたことだろうが、当時は物質の微細構造、元素について考えるのは、物理ではなく、化学の仕事であったのであろう。

 

宇田川榕菴について考えるには、彼が蘭学の家系の出身であることから始めなければならない。蘭学について、歴史上もっとも有名なのは、蘭方医学に関する杉田玄白、前野良沢らの『解体新書』(1774年)、杉田玄白『蘭学事始』(1815年)である。

当時の蘭学は、蘭方医学に始まり、薬学・植物学など実用的なものが中心であった。化学のように、実用的価値だけでなく、より根源的な分野に挑戦したのは、宇田川榕菴が初めてであったと思われる。

 

榕菴が育った環境および宇田川一族が、その周辺および後世に残した影響について研究してみたいと思っていた。ちょうどその時、今年の6月に宇田川榕菴の出身地である岡山県津山市にある「津山洋学資料館」を尋ねる機会があった。そこで学んだことをもとに、以下に纏めてみた。

 

Ⅰ.岡山県津山市

 津山市は岡山県の北部にある人口10万ほどの地方都市である。そんな所に「洋学資料館」があるのは、江戸時代にこの地で蘭学が栄えたからである。

 日本最初の西洋内科書『西説内科撰要』を書いた宇田川玄随、『医範提綱』などの西洋医学書を書いた宇田川玄真、本稿の主役である『舎密開宗』を書いた宇田川榕菴の宇田川家三代の出身地である。

オランダ語の医学書や医学雑誌から主要な論文を抜き出し掲載した日本最初の医学専門雑誌『泰西名医彙講』を編集し、後に幕府の蕃書調所の最初の教授になった箕作阮甫(みつくりげんぽ)、幕末の志士に影響を及ぼした世界地図『新製輿地全図』を翻訳した箕作省吾らの箕作一族の出身地でもある。

明治の数学者・菊池大麓と化学者・久原躬弦もこの地の出身である。

宇田川榕菴の出身地・津山は江戸時代に、蘭学がホットスポットのように栄えた土地であった。 

 

. 宇田川家三代

宇田川家は代々津山藩の漢方医の家系であった。玄随の時に、漢方医から蘭方医に転向した。玄随・玄真・榕菴の宇田川家三代は養子で引継がれた蘭学の家柄である。

 

玄随・玄真については、杉田玄白の『蘭学事始』(1815年刊行)に詳しく取り上げられている。『蘭学事始』は玄白が82歳の時に、後世に蘭学の始まりを正しく伝えたいと思って書いた回想録である。その上巻には主に前野良沢らと取り組んだ『ターヘル・アナトミア』の翻訳による『解体新書』(1774年)刊行の苦労話が書かれている。下巻には蘭学のその後の発展が書かれており、玄随・玄真にも多くのスペースが割かれている。

この二人が蘭学において、重要な位置づけであったことがわかる。

 

玄随は『解体新書』の翻訳者の一人である桂川甫周(1791年に『地球全図』刊行)に学び、前に述べたように、日本初の内科学書『西洋内科撰要』(17931810年)を刊行している。

玄真は初め杉田玄白に学問的能力を認められ、その養子になったが、素行上の問題があり, 離縁となった。のちに宇田川玄随の養子になり宇田川家を継ぐことになり、『医範提綱』(1805年)(解剖・生理・病理について分かりやすく纏めた医学書)、『和蘭薬鏡』(1820年)(榕菴校補。薬学書)、『遠西医方名物考』(1822年~25年)(榕菴校補、薬学書)を刊行した。

榕菴は玄真の養子として、宇田川家を継いだ。蘭学者としての養子・榕菴の環境はこの上もなく整っていた。榕菴は前述の玄真の書の校補をして働き、自身も『菩多尼訶経(ボタニカ経)』(1822年)、『植物啓原』(1834年)の植物学の訳書を刊行した。『植物啓原』はスエーデンのリンネが提唱した新しい学説を取り入れ、植物の分類、形態、生理、解剖などが科学的に論じられたものである。このリンネの科学的思考は、榕菴が『舎密開宗』を書くに当って、役に立ったことだろう。

1826年(文政9年)、シーボルトは将軍家斉に謁見のため、江戸に向かった。その際、江戸で榕菴と出会い親しく交流した。

その時、シーボルトからスプレンゲル『植物書』(ドイツ語)と顕微鏡を贈られ、『植物啓原』の刊行に役立てている。

植物学書の刊行、シーボルトとの交流を通じて、榕菴は自然科学者としての思考に磨きを掛けていったのであろう。そして、榕菴が最後の仕事として、手掛けたのが化学書『舎密開宗』(1837年~1847年)であった。

 

シーボルトは、2年後の1828年にシーボルト事件で国外追放になっている。シーボルトは最晩年は故郷のドイツに帰り、1866年にミュンヘンで亡くなっている。今は、リービッヒらと一緒に、ミュンヘンの旧南墓地に眠っている。

 

Ⅲ.宇田川玄随・玄真に影響を受けた人たち

‐箕作阮甫、緒方洪庵、菊池大麓、久原躬弦‐ 

宇田川玄真が育てた蘭学者としては、箕作阮甫や緒方洪庵らがいる。

箕作家もまた津山藩の藩医の家系である。阮甫は、前にも述べたように日本最初の医学専門雑誌『泰西名医彙講』を編集し、後に幕府の蕃書調所の最初の教授になった。先に別稿で紹介した『化学新書』を刊行した川本幸民の上司でもあった。

阮甫の養子の省吾は、世界地図『新製輿地全図』の翻訳者であった。もう一人の養子の秋坪は蕃書調所で活躍し、幕末の外交交渉でも活躍した。

箕作秋坪の二男に明治の数学者・菊池大麓がいる。大麓の四男に物理学者・菊池正士がいる。

秋坪の門人の一人に、化学者・久原躬弦がいる。久原家もまた津山藩医であった。

京都大学出身者にとっては、菊池大麓と久原躬弦は縁が深い人である。菊池は第3代目、久原は第4代目の総長である。

 

参考資料

酒井シズ『すらすら読める蘭学事始』(講談社、2004年)

津山洋学資料館常設展示図録「資料が語る津山の洋学」