宇田川榕菴『舎密開宗』を読む(1)時代背景

 

武山高之(2011.8.21記)

 

 前回、「リービッヒ一門の成果と江戸時代末の日本への影響(2)」において、文久元年(1861年)刊行の川本幸民著『化学新書』まで遡って考察した。

 ついでのことに、さらに20年溯って、天保8年(1837年)〜弘化4年(1847年)に宇田川榕菴『舎密開宗』を読んでみた。ご存知にように、この本は日本で最初の化学書である。

 

『舎密開宗』は、

『舎密開宗‐復刻と現代語訳・注‐』講談社(1975)として、復刻されているが、手元で手に入らないので、インターネットで検索して読んだ。

 

http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/yogaku/seimi/head.htm

 

現代語訳がないので、読み難いところもあった。間違いもあるかもしれない。お気付きの点があればご指摘いただきたい。

 

原著は1799年にイギリスで発行されたウイリアム・ヘンリーのExperimental Chemistryである。ヘンリーは、「揮発性の溶質を含む希薄溶液が気相と平衡にあるときには、気相内の溶質の分圧Pは溶液中の濃度Cに比例する」という「ヘンリーの法則」で知られた化学者である。

 宇田川榕菴は原著のドイツ語訳をオランダ語訳にしたものから和訳を試みている。翻訳されるごとに訳者によって増補がなされているらしい。『舎密開宗』が刊行した1837年〜47年は、原著から40年ほど経っている。

 

 表1に化学史から見た当時の時代背景を纏めてみた。ついでに、リービッヒの若い日の活動を対比させた。このような対比表を作ると、『舎密開宗』の理解に役立つばかりでなく、リービッヒ以前の欧州における化学の理解にも役立つ。 

 

表1 『舎密開宗』関連の化学史年表

1774

ラボアジェ(仏)

質量保存の法則、燃焼は可燃物と酸素の反応、

フロギストン説の否定

1778

ラボアジェ

空気は窒素と酸素の混合物

1788

ラボアジェ

新しい元素観を確立。約30種の元素表を発表

1789

ラボアジェ

『化学要論』

1799

プルースト(仏)

定比例の法則

1799

ヘンリー

ヘンリーの原本(Experimental Chemistry

1800

ボルタ(伊)

電池の発明

1803

ドルトン(英)

ドルトンの原子説。(ラボアジェの元素の本質は原子。原子量表)

「倍数比例の法則」(化合物の結合比は簡単な整数比で表される)

1803

 

リービッヒ生まれる

1808

イペイ

ヘンリーの本の独訳(トルムスドルフ)を蘭訳* 

独訳、蘭訳の翻訳とともに増補

1807

デーヴィー(英)

『電流の化学作用』。ボルト電池で電気分解

1808

ゲーリュサック(仏)

「気体反応の法則」

2種類以上の気体が関与する反応では、生成・消費される各気体の体積は同一温度・気圧下では簡単な整数比で表される)

1820

 

リービッヒ化学の勉強を始める

1821

ベルセリウス

(スエーデン)

酸素O=100として厳密な原子量表を作る。ドルトンの原子量表の改善。

1822

 

リービッヒ、ゲーリュサックに学ぶ

1823

リービッヒ(独)と

ウェーラー(独)

異性体の発見

1828

ウェーラー(独)

尿素の合成

1831

リービッヒ(独)

『元素分析』、リービッヒが最も成功した年

1833

ファラデー(英))

電気分解の法則

183747

宇田川榕菴

『舎密開宗』

*は奥野久輝『江戸の化学』(玉川選書、1980

 

 原著が書かれたのは、ラボアジェの新しい化学観が行きわたり、ブルーストの「定比例の法則」が発表された頃である。

ドルトンの「原子説」、「倍数比例の法則」、デーヴィーの「電流の化学作用」、ゲーリュサックの「気体反応の法則」が提案される前である。

当時の化学の先進国は、イギリスとフランスであった。イタリアやスエーデンでも成果が挙げられていた。リービッヒがフランスのゲーリュサックに、ヴェーラーがスエーデンのベルセリウスに学んだ頃でもある。

 年代的に見ると、若いリービッヒもこのヘンリー原著の独訳を学んだかもしれない。

 

宇田川榕菴は『舎密開宗』の序例(序文)で、化学の発展を次の4つの時期に分けている。

 

第1期 〜1650年 「舎密沙阿斯之世」 草創期?

2期 16501782年 「波羅義斯敦(フロギストン)之世」

第3期 17831807年 「安知波羅義(アンチ・フロギストン)之世」

第4期 1808〜    「越列機多羅舎密(電気化学)之世」

 

第3期はラボアジェがフロギストン説(燃素説)を否定して新しい化学観を出した時期に対応する。(本シリーズの第3回に詳しく述べる)

第4期を「エレキテル・セイミの世」としている。電気化学専門の化学者が喜びそうな表現になっている。(この点も本シリーズの第3回に詳しく述べる)

 

序文で榕菴は、元素説について、ギリシャのタレース「全てのものは水から出来ている」という記述とアリストテレスの4原素説「火、水、空気、土」にも言及している。

化学者名としては、ラボアジェ(剌暉西爾)とデーヴィー(達喜)の記述がある。さらに、第250章ではボルタ(福爾荅)の電堆にも言及している。

以下、『舎密開宗』の巻・章を追って、5回に分けて概説する。

(第1回 おわり)