リービッヒと日本農業

武山高之(2011.11.7記)

 

Ⅰ.近年、出版された訳書の紹介

 

筆者は先に「ドイツ化学史の旅」では、リービッヒ一門の分析化学、有機化学、物理化学、さらには、生理学、医学における成果について、報告してきた。

また、リービッヒ一門の成果と江戸末期の日本への影響についても報告した。

今回は、リービッヒのもう一つの大きな業績である農芸化学とくに「土壌肥料学」についての日本農業との関係について、述べたい。

 

近年、19世紀のヨーロッパにおける農業ついて、湯浅光朝編『自然科学の名著』(毎日新聞社、昭和46年)にも取り上げられている次の二冊の日本語訳が出版されており、参考になる。

 

アルブレヒト・テーア著、相川哲夫訳

『合理的農業の原理(上、中、下巻)』(農山漁村文化協会、2008年)

 

 原著は初版が18091812年に出版され、最終版が1880年出版である。この訳本の基になっているのは、1837年版である。

中巻の第10章フムス「腐稙」に、リービッヒの窒素・燐酸・カリなどの「無機栄養説」以前の「腐稙栄養説」が纏められている。

リービッヒ以前は、「水を除けば植物に土壌の中で養分を与える唯一のものとして、フムス(Humus)を考えていた。フムスは動植物の腐敗したものの残渣であるとしていた。

 

「フムスは一種の有機的な力の形成物であり、炭素・水素・窒素・酸素のある種の化合物であるが、こうした非有機的な自然諸力をもってしては産み出すことのできないものである。それというのも、このような無機的な自然界では似て非なる化合物しか作れないからである。」

と述べられている。

 

 このような背景から、次の文献で主張されているリービッヒの「無機栄養説」は、ヨーロッパにおいてもすんなりとは受け入れなかった。   

 

 リービッヒ著、吉田武彦訳、解題

『化学の農業および生理学への応用』(北海道大学出版、2007年)

 

原著は1840年に初版が出版され、第5版までは『有機化学の農業および生理学への応用』となっている。第7版で大幅な改訂がなされている。この訳本のもとになったのは、1976年に刊行された第9版(最終版)の部分訳である。リービッヒの没後、3年経って、弟子のツェラーによって纏められたものである。

 この本の本論では、リービッヒが彼の晩年に、土壌肥料学における「無機栄養説」の完成に力を注いでいることがわかる。

 日本農業との関連については、訳本の「付録」および訳者の「解題」が大変参考になる。

 

Ⅱ.リービッヒの「無機栄養説」の日本への紹介

 

 リービッヒ一門の分析化学および有機化学の成果は、幕末から日本に伝えられ、明治初年から留学生が送り出され、日本の近代化学成立に繋げられたことは前にも述べた。

 これに対して、農芸化学とくに「土壌肥料学」における「無機栄養説」が正確に伝えられるには、時間を要したらしい。この様子は、

 

 リービッヒ著、吉田武彦訳、解題

『化学の農業および生理学への応用』(北海道大学出版、2007年)

訳者・吉田武彦の解題

6「日本の農業とリービッヒ」

 

に詳しい。そこには、欧州の近代農業が日本に伝えられた最初は、お雇外人のオスカル・ケルネルとマックス・フェスカであると書かれている。

 次の一説は、その記述から一部を要約したものである。

 

オスカル・ケルネル(18511911)は1881年(明治14年)に日本政府の招きで来日し、1893年(明治26年)まで滞在した。その間、駒場農学校および農科大学(後の東大農学部)教授として、学生の指導に当った。その後、日本の農学会の中心になる人材を育てたが、リービッヒの「無機栄養説」を教えた形跡はない。

彼の弟子の中には、第10代の東京帝国大学総長となった古在由直(18641934)がいた。

(武山注。古在は渡良瀬川鉱害訴訟で住民の側に立って学者である。また、鈴木梅太郎の指導教官でもあった。)

マックス・フェスカは1882年(明治15年)に来日した。農商務省地質調査所に勤務し、主務は日本の土性調査であったが、日本の農業および農政に積極的提言を行った。フェスカはリービッヒの著書の第9版の編者ツェラーのもとにあって、いわばリービッヒの孫弟子に当たる。彼はリービッヒの格言を紹介しているが、非常に強く発言しているわけでもない。

明治期の日本の近代農学建設期において、リービッヒの理論と思想が移植され、日本の農学に何らかの影響を及ぼした痕跡を発見することは困難である。反対に、直接間接にリービッヒ批判の影響の方が圧倒的に大であると認めざるを得ない。

 

以上が吉田の解題の要旨である。

次に製造化学の面からみた化学肥料の発展について考察する。日本での最初の人造肥料の製造は過燐酸石灰であり、高峰譲吉と渋沢栄一が起こした東京人造肥料会社(後の日産化学)によりなされている。1887年(明治20年)であった。

国産の化学品製造の最初が、1881年(明治14年)の大阪造幣局におけるソーダ灰(炭酸ソーダ)であったことを考えると、人造肥料の製造はかなり早い時期になされたといえるだろう。

 

Ⅲ.日本農業の評価

 

今年、2011年は日独交流150周年の記念すべき年である。

1860年(万延元年)、ドイツ連邦プロイセン王国の東方アジア遠征団が江戸沖に来航し、翌1861124日には日本・プロイセン通商修好が結ばれた。

遠征団を率いていたのは、オイレンブルグ伯爵で、団員の一人のH.Maron博士により「日本の農業事情」についても報告されている。

 

その報告内容が、次の文献に書かれており、詳しく知ることが出来る。

 

リービッヒ著、吉田武彦〔訳、解題〕

『化学の農業および生理学への応用』(北海道大学出版、2007年)の

付録K 日本農業に関し、ベルリンにおいて農業大臣に行われた報告から

H.Maron博士)

Annalen der Preussishche Landwirthschaft 1月号1862年より

 

この報告は、晩年のリービッヒの目に留まり、関心を呼んだことが、同書の訳者・吉田武彦の解題5に「日本農業の評価」の中に、次のように紹介されている。

汲み取り便所の構造と人糞尿の回収法、調整について細かに記述して、次のように述べられている。

 

「朝早く、何千のはしけ舟がこの価値ある物質(人糞尿のこと)に満ちた桶を満載して、都市の水路を行き交い、国土の隅々まで恵みを分配する。――」

 

と報告している。

 

この報告は、イギリス農業の現状を批判しつつ、かつロンドンで発達しつつあった水洗便所について、厳しい疑問を投げ続けていた、リービッヒの目にとまり、強い関心が寄せられたとも書かれている。

 

おそらく、この報告はリービッヒが最初に得た日本農業の姿であったであろう。

リービッヒが糞尿の利用について、並々ならぬ関心を持っていたことについては、小川万里子の報告にも詳しい。例えば、小川万里子:化学史研究36〔4〕1812009)を参照。

 

(完)