リービッヒ一門の成果と江戸時代末日本への影響(1)

‐幕末から明治維新の頃‐

 

武山高之(2011.8.3記)

 

「ドイツ化学史の旅」でリービッヒおよびその一門の業績について調べてきた。

また、一門の業績がいかに明治期以降の日本に影響してきたかも考察してきた。

ところで、江戸時代において、リービッヒ一門の成果がすでに日本に入ってきたのだろうか?

この小論では、この点について論じたい。とくに、幕末に来日したオランダ人化学者ハラタマ、文久年間に密留学した長州の5青年、ペリー来航後に設置された幕府の「蕃書調所」の記録について、参考書を当ってみた。

結論からいうと、ペリー来航以来、1860年頃からリービッヒ一門の成果は少しずつではあるが、日本にも伝わっていたと考えられる。

 

Ⅰ.長井長義がホフマンのもとに旅立ったのは、明治4年(1871年)であった。 

 

明治期最初のドイツ留学生として、日本の近代薬学の祖と言われる長井長義がいる。彼がドイツに旅立ったのは、明治4年(1871年)であった。彼はのちにリービッヒの弟子であるベルリン大のヴィルヘルム・ホフマンに師事することになった。

同じ年にドイツに留学した化学者に松本銈太郎柴田承桂もいた。彼らもまた、ホフマン教授に師事した。松本は慶應2年(1866年)にオランダに留学し、一度帰国し、舎密局助教として後述するようにハラタマを補佐していた。

明治4年といえば、岩倉使節団が米欧に旅立った年であり、まだ西洋事情が十分に分かっていない時期だった。それでも、すでにリービッヒの弟子・ホフマンが日本で名が知れていたことになりそうである。

 

Ⅱ.慶應2年(1866年)に来日したオランダ人化学者ハラタマが用いた教科書はフレゼニウス著「定性および定量分析」のオランダ語訳だった。1)

 

ハラタマは幕府の要請で、幕末混乱期の慶應2年(1866年)に長崎にやってきたオランダ人化学者である。来日にあたって、実験道具一式を携えてきた。翌慶應3年(1867年)には江戸に移ったが、混乱期であり化学を十分には日本人に伝えることが出来なかった。

明治元年(1868年)には、彼はさらに大阪に移った。翌明治2年、大阪舎密局で実験を伴った講義を始めた。使った教科書はC.R.フレゼニウスのオランダ語訳の「定性および定量分析」だった。フレゼニウスはリービッヒの直弟子で分析化学をよくしたことで知られている。

ハラタマは明治4年(1871年)まで在日した。

ハラタマ博士像は大阪舎密局跡(中央区大手前3丁目大阪府警別館前にある。彼に学んだ学生には上野彦馬、長井長義、三崎嘯輔らがいた。高峰譲吉もハラタマの教えを受けている。彼の助手を務めたのは三崎嘯輔と松本銈太郎であった。三崎はのちに大学東門予科で教職につき、松本は前述したようにホフマンのもとに留学した。惜しいことに二人とも30歳前に早世した。ハラタマの講義録は三崎の訳によって、明治3年に『理化新説』として、刊行された。

ハラタマを通じて、彼の学生たちにも、ホフマンのことが知られていたと考えても、不思議は無いだろう。

 

文献)

1)奥野久輝『江戸の化学』(玉川選書、1980年)

 

(おわり)