リービッヒ一門の成果と江戸時代末の日本への影響(2)

‐ペリー来航後、文久年間の頃‐

 

武山高之(2011.8.3記)

 

ここでは、前報から数年の時代を遡ってみる。

 

Ⅰ.文久3年(1863年)、イギリスに密留学した伊藤俊輔(後の博文)ら5人の長州青年の世話をしたのは、ロンドン大学教授ウィリアムソンであった。2)3)

 

 文久3年(1866年)に5人の日本青年が国禁を犯して、イギリスにわたり、ロンドン大学教授ウィリアムソンの指導と庇護を受けたことは山岡望『化学史談Ⅱ-ギーセンの化学教室』に写真入りで書かれている。ウィリアムソンはリービッヒの直弟子のイギリス人である。5青年とは、長州藩の伊藤俊輔(博文)、井上聞多(馨)、遠藤謹助、山尾庸三、の野村弥吉(井上勝)である。

『化学史談』にはこれ以上詳しいことは書かれていない。詳しいことが知りたいと思っていたところ、先日、弘前の化学史学会でお会いした(株)トクヤマの楠 正夫さんから頂いた大倉五半二という筆名の『産業・人物史 探訪~トクヤマにかかわりの深い産業と人物の軌跡』という冊子に、この5人に関する詳しい記述があったので、紹介する。

 長州では、この5人のことを「長州五傑」と読んでいる。

伊藤俊輔は維新の元勲・伊藤博文である。

井上馨は有名な政治家で初代外務大臣である。

遠藤謹助は後に造幣局長を務めた。

井上勝はのちに鉱山頭兼鉄道頭に就任した。新橋~横浜間の鉄道開設、逢坂山隧道の難工事達成などに貢献した。

山尾庸三はのちに工部省の創設、工部大学校の設置に貢献した。

留学期間は、伊藤博文、井上馨の二人の政治家は数ヶ月、遠藤謹助は3年、他の二人は5年ほどである。

 この冊子には、ウィリアムソンのもとに着いた5人が当初何をしたかが次のように書いてある。

 

――朝夕は博士の家で算術や英語を学び、昼間はロンドン大学に通い分析化学などを受講した。――

 

維新の元勲が分析化学を学んだという記載は、我ら化学徒にとって愉快な話である。 

『化学史談Ⅱ』にある5人の写真を基にしたレリーフが山口市の山尾庸三の生家前にあるという。この写真はロンドン到着直後に洋装にて撮ったものだという。因みに、来年の化学史学会は徳山で開催される。

 

Ⅱ.文久元年(1861年)、蕃書調所の川本幸民が翻訳刊行した『化学新書』にはリービッヒの農芸化学および動物化学の影響が現れているようである。4)

 

 ペリー来航後、蘭学に留まらない洋学研究の必要性を感じた幕府は、安政2年(1855年)に「洋学所」を開設、翌年には「蕃書調所」と改称、さらに文久2年(1862年)には、「洋学調所」、文久3年(1863年)には「開成所」と改めた。蕃書調所は東京の九段南に、開成所は神田錦町の現在の学士会館の場所にあった。

 その蕃書調所の川本幸民が万延元年(1860年)に翻訳刊行した『化学新書』には、リービッヒの影響が色濃く出ていると言う。川本幸民は三田藩の人で、三田市立三田小学校の正門には、彼の顕彰碑があるという。

日吉芳朗の解説によると、この本はドイツのシュテックハルト1846年に著した『化学の学校』がもとで、12ヶ国語に翻訳されているという。リービッヒ一門の偉大なる化学者のアドルフ・フォン・バイヤー、エミール・フィッシャー、ヴィルヘルム・オストワルドも若い日に親しんだ化学実験書だという。

蕃書調所の学者たちは、バイヤー、フィッシャー、オストワルドに14年遅れて、シュテットハルトの本を日本語で読んだことになる。遅れたというより、当時の日本の事情を考えると、早く対応しているように思われる。

この本には多くの実験が記されていて、その中に有機化学実験が多いのは、リービッヒの農芸化学や動物化学の影響ではないかと言うのが、日吉の意見である。リービッヒの『農芸化学』が刊行されたのは1840年であり、時期的には頷ける。

 

文献)

1)奥野久輝『江戸の化学』(玉川選書、1980年)

2)山岡望『化学史談Ⅱ-ギーセンの化学教室』(昭和27年、内田老鶴圃新社)

3)大倉五半二『産業・人物史 探訪~トクヤマにかかわりの深い産業と人物の軌跡』

((株)トクヤマ経営企画室、2011

4)日吉芳朗「化学と教育」46〔9〕5961998

 

(おわり)