弘前にて

 武山文子(2011.8.22記)

 

 夫の大学同期生の夫婦六組で三回〈ドイツ化学史の旅〉に行った。夫たちは探究心に燃えている。旅を楽しんだだけでは満足せず、《化学史学会》でのリレー発表を計画した。昨年は東京の明治大学でIさんが、今年は青森の弘前大学で夫が発表することになった。それではまだ一度も行ったことのない弘前へと、応援と観光も兼ねて三組の夫婦は二〇一一年七月一日、午後一時に弘前駅前に集合した。

 学会前日の行事として、お世話役の弘前大学A先生の御案内で、参加者二五名はタクシーで移動して市内巡りをすることになった。

〈春のさくら祭り〉には枝垂れ桜やソメイヨシノで埋め尽くされるという有名な弘前公園は、初夏の深い緑に囲まれて静かだった。四〇〇年前、江戸時代に再建されたという天守も趣がある。姿のいい赤松を眺めながら園内をゆっくりと散策した。

 立派な三門のある《長勝寺》は京都、奈良の寺とは何か違う。津軽の風土に根差した暗く重たいものを感じた。五百羅漢の仏像やお墓にも。

弘前の街は洋館が多く西洋文化の香りがする。陸軍第八師団の厚生施設として使われたという《旧弘前偕行社》を見学した。ルネッサンス様式を基調とした建物の大広間にはシャンデリアや暖炉のタイルにレトロな雰囲気が残っていた。当時の華やかな社交の場面が目に浮かんできた。

宿泊したホテルの紹介で、夜は津軽三味線の生演奏付き居酒屋に、仲間で行ってみた。天井からは〈金魚ねぶた〉の飾り物がぶら下がって、黒い板の間の長机を囲むように座り込み、イワガキやギンダラを肴に、にごり酒を味わった。若い津軽三味線奏者は、右手の激しい撥さばきより、左手で紡がれる『津軽じょんがら節』の繊細な音色が心に浸みた。雪がしんしんと降る季節の方がもっと旅人の叙情も増しただろう。

学会一日目。男性三人は会に参加するため弘前大学へ。女性三人は観光タクシーの四時間コース・お一人様七〇〇〇円で〈岩木山神社とりんご公園〉へと駅前から出発した。素朴な中年の運転手さんは

〈メーター倒すんべか〉

と、聞きたかった東北弁だが、案内は少しおぼつかない様子だ。岩木山を観たいと思いながら、まんず、出発進行。平らな土地に田や畑が続く田園風景だ。屋根に雪よけを施した民家があり冬の厳しさを想像する。あちこちに、りんごの木が立ち並ぶ。

〈花の頃は、薄いピンクできれいだよ。実も今はピンポン玉くらいだが〉

と運転手さん。

岩木山神社では、美味しい石清水で喉を潤して、間もなく《りんご公園》に到着した。展望台に上がると、にわかに雲を払った岩木山が姿を現した。なだらかで美しい山だ。公園は広場もあり、周りは、りんご、りんご、りんごの木でいっぱいだった。

ショップの食堂で、ほのかに香りのするりんごラーメンを食べた。運転手さんも誘ったが、事務所に置いてきた愛妻弁当を帰ってから食べると云って、タクシーで時間待ちとなった。ショップにあるりんごグッズには買いたい物もなく、リンゴの木の下に落ちていたピンポン玉のような青りんごをいくつか拾った。

朴訥な運転手さんも帰路には案内役にも慣れて、ぼそぼそと津軽の話もしてくれた。

震災は免れて良かったが、観光客はぐっと減ったという。帰りには老舗のお菓子屋さんにも寄ってくれた。ゆったりといい時間が過ごせたと思う。

ふと、県民性を思った。

〈いまどきの修学旅行生はほとんど観光タクシーを利用しますよ〉と、事細かに様子を話してくれた京都のタクシーの運転手さん。

聞かなくても今日の天気や、お薦めスッポトを教えてくれる土佐のタクシーの運転手さん。

〈青森のじょっぱり〉、〈土佐のいごっそう〉、同じ頑固者でも雪国の風土に培われたそれと、陽気な南国で培われたそれとでは中身の違いは明らかだ。

一日目の学会終了後、男性たちは懇親会があるので、女性三人で過ごす弘前の夜はと思案していたら、仲間のNさんの知人で漫画家でもあるTさんが、地元のホテルで開かれる《弘前呑ムリエ会》に参加しませんかと携帯メールにお誘いがあったとのこと。Nさんは別として他二名はお邪魔虫だが、好奇心が先に立ってもうその気になっていた。

会場には、《呑ムリエ会》と染め抜いた黒い法被を着た地元の日本酒組合の方たち、米・味噌・豆腐の生産者、ジャーナリスト等、百人あまりが大集合していた。中央の台の上には全国各地の銘酒の一升瓶が、呑み比べ用に、ずらりと並んで壮観だ。中には一本10万円もする《喜久水 朱金泥能代醸蒸多知純米大吟醸 山田錦33%》も。円卓を囲んで地元の食材を使った懐石料理を頂きながら、初対面にも臆せず話しているうちに、暖かい雰囲気に溶け込んでしまっていた。飾らないけど、辛口のお酒のようにきりっとした地元の造り酒屋の女将さんとも親しくなった。熱い生産者の思いを聞くうちに、すっかり日本酒のファンになっていた。〈またどうぞ〉の声を背に、酒の香りに満ちた不思議な部屋を、ほろ酔い気分で後にした。

学会二日目、弘前大学での夫の発表日。日曜日なので、キャンパスには学生の姿もなく、窓を開け放った階段教室の外には濃い緑の木が揺れていた。受付で、お手伝い役の女子学生もおっとりしている。応援も含めて四十人程の参加者の前で、パワーポイントを使った資料説明をなんかいも練習していたので、三十分の講演は、活発な質問や仲間の応援もあり無事終わった。  

七十五歳にして学会発表にトライする心意気に拍手をしたい。発表者は現役の大学の先生が多いが、企業リタイア組もなん人かいた。

持参したお弁当を教室で食べて、午後の発表も聞くことにした。東京工業大学のK先生による〈紙幣に登場した科学者たち〉を、面白くお聞きした。お札にどんな絵柄を選ぶかで、世界各国の姿勢が分かるという。改めて、福沢諭吉を眺めてみた。

再度この地を、林檎がたわわに実る頃と、雪に閉ざされた厳冬に訪れてみたい。

 

(おわり)