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音無しで見なければならないNHK番組

 

NHK番組の余計な雑音に関しては何度か記事を書いたので、ここまででもう分かったという方には、この先を読んでいただくことは期待していない。

 

私はNHK番組は極力見ないようにしてるが、それでも妻がこれだけはぜひ見なさいと録画してくれる番組がある。それらのほとんどは社会番組で、最近は原子炉も含め地震に関するものが多い。土壌の液化現象に関する番組は昨日みた番組である。

 

これらの番組は情報源としては重要な内容で、編集もしっかりしている。ところが問題は、深刻な情報になると必ず視聴者を不愉快にすることが目的の不快な不協和音が持続して鳴らされること、また番組によっては、とてつもない高く鋭い音をやにわに鳴らすことである。一個の番組の中で、一度や二度ではなく、手を変え音を変えて非常にひつこく何度もくりかえされる。これが鳴り出すと、番組の内容を聞いていられず、テレビを切ってしまおうかとも思ったが、液化現象に関する番組では妻のアイデアで音無しで最後までみることで、内容の大半は分かった。

 

社会問題の番組ばかりでなく、あらゆる番組でよく似たことが起こっている。番組を作るどの段階で、誰の意思によりこのような音を入れるのか良く分からないが、もし台本を書いた人が原稿にアンダーラインをつけて、このところはこんな音をと規定するのであれば、「ここの部分はこの音くらい不愉快な話である。視聴者の諸君、お分かりか」といって言うみたいだ。それが何度も繰り返し出てくると、腹が立ってくるのは私だけだろうか。もし、番組の録画と編集の終わったあとで、雑音係が適当に背景雑音を自分たちの判断で入れているのかもしれない。どういうう基準で何を目的にやっているのか。

 

このような雑音が役に立つと考えている人はいるのか。あるいは、うるさいと感じる私が異常なのか。もし、NHK番組の不快音が一般視聴者に役に立っているのであれば、日本の社会はとんでもない感覚音痴になってしまっていて、もう取り消しのつかいないことになったという他ない。

 

NHKの使命の一つは社会の問題をとりあげて報道し、その解決方法を論じることである。しかし、NHK自身の問題に関しては、投書をしても返事はこないし、もちろん番組でこの話題を取り上げようともしない。

 

不快音の性質はこの十数年の間に大きく変化してきた。最初はうるさい音楽で、番組中の話し言葉は聞こえなくなるほど音量が高かった。私はNHKに手紙を書き、其の弊害を指摘し、背景音楽の大きさは音声の1/3にしてくれるように頼んだ。返事はもらえなかったけれども、やがてこの基準は取り入れられ、背景音楽の音量は低くなった。

 

しかしその次に現れた背景音楽ではパターンが使われるようになり、細胞、原子、将棋の駒など、小さなものがテーマであるときは決まったように、それらの単位を短いメロデイであらわし、それをいくつかくみあわせ、繰り返し繰り返し聞かせる習慣が出来だした。非常にわずらわしく、これも苦情を書いたら、そのようなパターンはしばらくすると聞かなくなった。

 

背景音楽で台無しになっている番組の一種類は絵画の番組である。つまらない音楽により「絵画はこのように感じなさい」と規制されているようで、私はNHKの絵画の番組は見たくない。もしあなたが自然の美しい景色があるところへ行くとしよう。ところが行く先々にラウドスピーカーが設置してあって、そこからNHK専属の作曲家の書いた背景音楽が「ここは美しいですね、このように感じてください」と押し付けるように流しているようなものだ。

 

別の手紙では次のようなことを書いた。「音楽は番組を聴いている人の気分に非常に強く働きかける。これはよき方向に作用することもあり、映画や優秀なドラマの監督は音楽を上手につかう。反面、音楽には強い規制力がり、其の使い方をまちがえると、番組全体の価値を極端に低下させる。NHKには文化内容の良い番組が多いのに、其の多くが背景音楽の選び方がわるく、台無しになっている。余計な背景音楽はないほうが良い」。何人かの番組編集者はこれを分かってくれ、なかでも国井雅彦氏の番組ではその後背景音楽をなくし、番組はすっきりした。

 

しかし、いたちごっこのように次から次にパターンを変えて現れる背景音楽とか雑音はむしろ増える一方で、そのつどNHKに苦情を書き続けることは苦痛なことである。むしろNHK番組を見ない聞かないことにして、今回の震災がおこるまで、何年かが過ぎた。

 

最近気になる傾向で、聞いていられない音のパターンは、非常に音程の高いキリキリした鈴を鳴らすような(グリュッサント)音、その他の視聴者をギクッとさせるような音を耳をつんざくような音量で突拍子もなく会話中に入れることである。俳優などがゲストに出てくる番組に多い。世界遺産番組では、琴、土地の民俗音楽、じゃず、そのたの音楽が一個1秒くらいの細切れに鳴らされていた。また、先にも書いたが最も単純な不愉快音を鳴らし続けることである。

 

また一個の音楽から次へのに切り替えるときは往々にして、一個の音楽の途中から次の音楽の途中に、たとえばクラシック風からジャズへといった具合に、一瞬に機械的に切り替えている。たとえ娯楽番組で視聴者を喜ばせるためとはいえ、あまりにもずさんな扱い方が丸見えである。音楽を書き、演奏する人への敬意というものも微塵も感じられない。

 

背景音楽がメロデイになっている場合は、NHK専属の作曲が曲を書いているのであろうが、これらは非常に狭い範囲の曲で、一個一個は違っていても、リズムと音の変化にどれも共通性があり、飽き飽きする。また、見え透いたような物まねも聞きにくい。たとえば、鳥の骸骨が話題になると、音楽はザイロフォンのかさかさしたメロデイになった。ザイロフォンで鳥の骸骨に関連した曲を作るというのは、サンサーンの「動物の謝肉祭」のなかの「骸骨のおどり」をまねしたものと察せられる。このように、何か話題が変わるごとに、それにこじつけた音楽を聴かされるのは非常にわずらわしい。

 

NHKで機械的ともいえるほど良く使う背景音楽のいれかたのパターンは、話している人が一個の文章を話しだす0.5秒まえに音楽をはじめ、視聴者がその音楽に気をとられそうになった瞬間に文章がはじまる。そして、音楽の上乗せになった話を聞かなければならない。

 

演劇での話し方には「間」というのを大事にする。これは音楽の演奏にも使われる大事な手法であり、朗読や話しかけろときの表現にも使われる。しかし、背景音楽をほとんど常に流しているNHKの番組では、そのような微妙な「間」は全く無味なものとなる。

 

このような苦情をNHKに送るとどのような反応があるか予測できる。つまり、うえに書いたようなパターンそのものはやめるが、書いてないパターンはやめない。そして、異なるパターンのものを必ず始めるのである。不愉快な背景音をどうしても止めないのがNHKの体質としか言いようがない。

 

あるいは、日本の視聴者で私と同じように背景雑音を嫌う人が全くいないのかも知れない。でなければ、多額の金をかけて大勢のオーケストラの楽員を使い、ほとんどの番組にこんなにしつこく背景雑音を入れるわけはないであろう。不思議な事である。背景雑音楽をきめ細かに入れるには非常に多額の費用がかかる事は見逃せないが、聴視者が払っているNHK聴視料の大きな部分が背景雑音のためにつかわれていることになる。一つ一つの番組で、作曲家、オーケストラの楽員に払うの費用は、番組の内容を作成するよりも高いかも知れない。その一方、日本のオーケストラ楽員は忙しすぎて、定期演奏会がおろそかになりがち、という指摘がある。関係はないだろうか。

 

仮に背景音楽を音楽として聴くとしても、演奏に心がなく、それだけでも音楽としての価値のないものがほとんどである。

 

音というのは、人間はもとより動物にも非常に大事な信号と交信の手段である。大きな音を出すことは、動物、人間でも原始社会を見てもわかるように、危険を知らせる手段で、聞いたものはそれなりの注意を払わざるを得ない。だからそのような音を聞くたびにギクッとなる。知的な会話をしている最中に、ヒュウッ、キーン、キリキリンと言うような甲高く不愉快な非常に大きな音を、健康とか医学的な話の最中に鳴らされるというのは、どういう信号を発信したいのか納得できない。もしNHK以外の講演会で講演者がこのような音を出したら、常識ないといわれるに違いない。たとえば大学の講義を行う教授がこれらの音を出す機械を授業中に回して、非常に鋭い音を何度か出したとしよう。この教授は大きな社会問題にされるであろう。しかし、同じことをほとんどの番組で行っても誰にも問題にされないのか、あるいは出来ないのがNHKである。

 

この問題がどこへ行っても取り上げられないのは、3・11地震までは、原子炉の安全性を訴える人がいても誰も聞く耳を持たなかったのと似てはいないだろうか。公開討論会でも開いて、雑音背景音楽公害をどうすれば少なくし、社会を住みやすくするかの議論があってよいと思う。

 

もう一つ考えられることは、背景音楽の適切な扱いについて、しっかりとした考えを持つ人が上層部には誰もいないのであろう。米国英国フランスのテレビではこのように意図的な雑音で視聴者を邪魔し嫌悪を与えるようなことは絶対にない。なぜなら、人が話している間は他の音で邪魔をしないという鉄則を守るからである。NHKはあまりにもふざけていて低級である。NHKはこの問題を解決しないかぎり、残念ながら「音の扱いの本質も知らない不愉快な放送局」の域を脱しないであろう。NHKが基本からこれらの問題に取り組まないなら、私が投書を送ることは意味のないことであると悟った。

 

中村省一郎  7-18-2011

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