近世のオランダ

 

16世紀(15001600)といえば日本では室町時代の末期、織田信長、

豊臣秀吉、徳川幕府の初期が含まれる。この期間に西洋で最も

強力な国といえば、ポルトガルとスペインであった。16世紀の始

まる寸前(1492)にコロンブスのアメリカ大陸発見があり、16世紀

半ばまでにはメキシコから南米の全領域にわたる広大な地域を両国

の植民地にしてしまった。1520を始まりに、メキシコ、チリなどに

銀鉱が見つかり、大量の銀をスペイン本国へ持ち帰るか、交易に用

いるかで、莫大な利益を上げた。ポルトガルとスペインの間では競争

はあったが、王室の婚姻関係があったのと、同じカトリック同士の

ため大きな争いはなく、また一時は両国は合併して一国になった

こともあった。

 

この時期のオランダを理解する上で、スペインがハップスブルグに

縁組し、スペイン国王チャールズ一世が神聖ローマ帝国皇帝(1519

1558)になったことは重要である

 

少しさかのぼるが、コロンブスにアメリカ大陸発見につながる船旅

の資金を与えたのはスペインのカスチーラ地方の女王イザベラで、

夫のフェルジナンドはその東に位置するアラゴン地方の王であった。

二人は協力してその当時スペインのグラナダやコルトバを含む南部

を占拠していたアラブ人を征服した。彼らの間には5人の子供が居り、

すべて政略的に重要な結婚をした。5人のうちの2人の娘はポルトガル

王家に嫁入り、1人はハップスブルグ家の神聖ローマ帝国皇帝でも

あったマキシミリアン1世の息子フィリップ1世と結婚し、スペインが

ハップスブルグ家の一員となった。5人の中では息子は一人だけで

あったが、ハップスブルグ家の娘と結婚し、ハップスブルグ家との絆

をさらに強めた。女王イザベラの末の娘は英国のヘンリー1世と結婚し、

その娘が英国女王メアリー1世となった。マキシミリアン1世の息子

フィリップ1世と結婚した娘の名はジュアナで、一人の息子ができた。

その息子はチャールズ1世として1516年にスペイン王となり、

続いて1519年チャールズ5世として神聖ローマ帝国皇帝(1519

1558)になった。

 

さて、16世紀の始め頃までは、オランダは小さな領主の集まった

地域であったが、神聖ローマ帝国の一部でありその皇帝はスペイン

王でもあったため、オランダはスペインの支配下に置かれることに

なった。スペインはカトリックであるのにたいし、オランダでは

マーチンルーターから始まった宗教改革が広がって、プロテスタント

になっていた。しかし、この宗教的違いも、オランダ人がスペインと

ポルトガルを嫌う大きな原因となった。オランダがフランスと戦争した折、

フランスの北からも攻めるため、オランダに大勢のスペイン軍隊を駐屯

させたこともあった。

 

オランダは、16世紀の間に大きな経済発展をした。内陸では

羊毛の加工が発達し、ヨーロッパの各地から集めた原料をオランダ

で加工して、各地に売った。英国にも大量に輸出された。また漁業

の技術も発達し、鰊が大量にスペインに売られた。アムステルダムは

北海と大西洋沿岸との交易の中心地として発展した。このような経済

の発達に伴って都市が発達し、オランダ国としてのまとまりは

なかったものの、領主間の協力の絆は強かった。当時ベルギーと

オランダは分離していなかった。

 

1568年から1648年まで続くスペインからの独立戦争が起こり、80

戦争と呼ばれた。オランダは1648にスペインから完全に独立し、

ハップスブルグ家および神聖ローマ帝国からも縁を切った。

 

スペインとポルトガルは17世紀後半以降、イスラムの排斥、

ユダヤ人の追放を行ったのに対し、オランダは経済的に豊かな人、

また技術的に能力のある人を、人種にかかわらず優遇した。この

こともオランダの文化発展に大きな拍車をかけた。

 

オランダのヨーロッパでの交易、VOCの活動、漁業でも見られる

ように、オランダにとって船つくりは大事な産業であった。これを

支えた出来事がある。それは1596~7にかけて、鋸を風車の

動力で動かす装置の発明であった。この発明で、船作りに必要な

製材木の能率は30倍に上がったと伝えられる。(円盤型の鋸は

1760年代に主に英国で開発され、1820年代に大型の回転鋸

が実用化された。)

 

17世紀のオランダでは、ヨーロッパの他の国を遥かに追い抜いた

経済発展と、それに伴い、芸術、技術、科学、医学、国際法などの

発達があった。オランダはヨーロッパの出版業の中心ともなった

この時代の有名な画家にレンブラント

Rembrandt Harmenszoon van Rijn (16061669)がいる。ホイヘンスの

原理で知られるChristian Huygens 1629年  - 1695はオランダ人で

あり、振り子時計も彼の発明による。顕微鏡もこの時代に、オランダ

で発明された

 

ポルトガルとスペインをオランダから追い出すまでは、英国はオランダ

に協力的であったが、その後は両国間の戦争が何度かおこった。

オランダはスペインから独立後Republicと名乗っていた。

英蘭戦争の第1回目は16521654年、2回目は1665年、3回目は1672

1702年。現在のニューヨークは元はオランダの植民地であったが

3回目の英蘭戦争の時、英国に取られてしまった。3回目の英蘭戦争

ではフランスも英国に加勢し、オランダは多くの領地を失った。4回目

英蘭戦争は17801784に起こり、アメリカの独立戦争の時期と重なる。

実際英蘭間の紛争の種は英国とオランダの交易争いに関するもので、

英国はオランダがアメリカと交易することを望まなかった。

しかしこの戦争では、オランダに非常に不利な結果となった。

 

18世紀に入ってから、VOCを初めとする交易の利益が下がり初め、

資本も他国へ流失し始めた。しかし、アムステルダムの業者はそこに

目をつけ、銀行や金融業者が繁栄した。18世紀末のオランダが英国に

貸し付けていた融資の総額は英国のGDPの4倍に達した。

 

18世紀後半を過ぎ、19世紀が近ずくにつれて、経済的なかげりは濃

くなった。中産階級の高度な生活レベルは続いたが、17世紀に裕福に

なった階層は、利子や農地の貸賃で生活の安定を守ることだけに

関心をもち、下層階級は発展のなくなった経済のなかで、辛抱する

以外に抜け道のない社会となっていた。

 

オランダ衰退の大きな要因の第一は英国の軍力と経済が強くなり、オランダ

の独占権が弱まったたこと、第二はフランス革命とナポレオンによるオランダ

占領であり、ナポレオン政権の下ですべては混乱に落ちってしまった。

ナポレオンはウォータールーの戦いで英国に負け、1815年にオランダは

フランスからの独立を取り戻してから、オランダの近代史が始まる。

 

南アフリカはVOCの船が喜望峰を通るため、停泊地として小さな

植民地ができていた。しかし、ナポレオンのオランダ占領の影響で、

オランダの手が届かなくなった時、英国が乗っ取ってしまった。これが

南アフリカと英国の深い関係の始まりである。

 

17世紀と18世紀を通じてなぜオランダは植民地の獲得に消極的

であったのか、またなぜオランダには英国で起こった産業革命

が起きなかったかは興味あるテーマである。

 

19世紀に入ってもオランダの植民地として残っていたのは、VOC

が力をいれて開発していたインドネシアだけであった。しかし、第二次

世界大戦で日本軍が占領し、オランダ植民地の体制を破壊してしまった。

第二次世界大戦終了後、オランダはインドネシアを取り戻そうと試み

たが、インドネシアはアメリカの後押しで独立してしまった。