201227

 

西 村 三千男 記

「科学史の雑記帳・蘭学から洋学(英、仏、独)へ」

 

第6話 英学事始め(その4、フェートン号事件)

 

第2話と第5話で触れた「フェートン号事件」は江戸幕府にイギリス〜英語〜英学を

意識させた大事件であった。1808年、イギリス船フェートン号がオランダ船の如く

偽装して、オランダ国旗を掲げて長崎港に侵入し、オランダ人2名を人質にし、出島を

占拠しようと幕府を威嚇したのであった。

 

 この事件の背景は、オランダがナポレオン軍に占領されて国力が衰えているところに

イギリスがつけ込み、オランダの海外利権を蚕食しようとしたのだと説明されている。

周章狼狽した幕府は長崎奉行に責任をとらせた。長崎の警護に当たっていた佐賀の鍋島

藩はこれを教訓に外交に覚醒する端緒とした。幕府はこの「フェートン号事件」と同時

期に発生した「露寇」(前回述べた)とから、その年の10月に蘭通詞数名に「英語、

露語」の学習を命令した(後で述べる別の理由から、仏語の学習もほぼ同時に命令され

ている)。なお、当初は「英語」という言い方はなく、まだ英吉利語(イギリス語)で

もなく、正式命令では「諳厄利亜文字言語修学命令」となっていた。諳厄利亜(アンゲ

リア)はラテン語の(Anglia)から来ていると推定される。

 

 幕府が定めた英語学習の指導者は、オランダ商館副館長ブロムホフ(J. C. Blomhoff

であった。アイルランドで英国陸軍に勤務経験があった。習った蘭通詞、本木正栄らの

努力で、2年後に英単語、英会話文を収集した英語入門書「諳厄利亜興学小筌」、5年

後(1814年)に英和単語集「諳厄利亜語林大成」が完成している。第4話の「英和

対訳袖珍辞書」に比して、実に約50年も先行しているが、収録語数は約6、000語

程度であった。これら「小筌」も「大成」も通詞仲間用の意図で編纂されている。狭い

専門家集団を対象としていて、広い世間を相手としていない。それが証拠に、第2話に

述べた福沢諭吉(当時の碩学)が40〜50年後の時点(1859年)でも英語の素養

を持っていなかった。

 

(つづく)